<< 2012年05月 >>
123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031

イギリスご訪問決定への懸念

2012/05/13 11:57

 

 天皇陛下が、皇后陛下とともに、イギリスをご訪問になることが決まりました。18日金曜日に予定される、エリザベス女王即位60年の午餐会に出席なさるためです。
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h24uk/eev-h24-uk.html

陛下は60年前の1953(昭和28)年に行われたエリザベス女王の戴冠式に、昭和天皇のご名代として参列されています。当時の参列者で、今回も出席するのは、陛下のほかは、ベルギーのアルベール国王だけで、話題に花を添えることになりました。

しかし、不安もあります。


▽1 術後3カ月も経っていないのに

日本の天皇が即位後、外国を訪問されたのは昭和天皇がはじめてで、昭和46年にはヨーロッパを、50年にはアメリカを訪問されました。70歳を超えてからのご旅行ですが、今回はさらにご高齢での海外ご訪問となります。

しかも、陛下は2月に心臓外科手術をお受けになり、それからまだ3カ月も経っていません。

陛下と同様に開胸手術の経験を持つ、石岡荘十・元NHK記者によると、術後3カ月は無理をしてはならないとされているようです。航空機による長旅の懸念もあります。石岡氏は、「(高齢者は)回復が遅いから、半年ぐらいは、低気圧環境の機内に長くいるのはいいわけはない」「術後、胸水があれだけ長く続くのは異常」という「高名な心臓専門医」のコメントを引用しています。
http://chomon-ryojiro.iza.ne.jp/blog/entry/2676140/

それかあらぬか、外務省などでは皇太子殿下をご名代とする案が検討されたと伝えられますが、医師団は先月末、「ご訪問に支障がない」と診断しました。

いささか強引とも思えるご訪問決定には、報道によれば、「陛下の強い思い」があったと伝えられます。けれども、外国ご訪問は「内閣の助言と承認を必要とし、内閣がその責任を負う」べき、10項目の国事行為ではないにしても、陛下のご一存で決められることではありません。

日英関係は重要でしょうが、ご高齢で、ご健康問題を抱える陛下が、どうしてもお出かけにならなければならないのかどうか。政府の判断は的確なのでしょうか?

けれども、陛下はむしろ淡々としておられるようです。

古来、天皇に私なし、であり、国と民のためにひたすら祈るのが天皇であって、今上陛下は「わが命は国と民のものである」というお思いなのでしょう。争わずに受け入れるのが天皇の帝王学です。

陛下と政府との間には、かなりの温度差があるように思われます。陛下のご感想にそのことがにじみ出ていると感じるのは私だけでしょうか。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gaikoku/gaikoku-h24-uk.html

そんななか、昨日12日から、天皇陛下は皇后陛下とともに、宮城県仙台市をご訪問中です。仮設住宅住まいの被災者たちを励まされるというのはよく理解できますが、「第14回IACIS(国際コロイド・界面科学者連盟)国際会議」の開会式に出席されるというのが分かりません。陛下がどうしてもご臨席にならなければならないほどの会議なのでしょうか?

政府・宮内庁が、「陛下のご意思」をも動員して、ご公務の日程を強力に推し進め、療養中の陛下が粛々とこなされているという構図に、少なくとも私には見えます。


▽2 減ってはまた増えるご公務

というのも、すでに何度もご紹介したように、陛下のご公務は、ご負担軽減の基本方針にもかかわらず、ご不例のたびに減り、お元気になると日程がたて込むというパターンが繰り返されているからです。

次の表は、公表されている「ご日程」から、陛下のご公務日数を月ごとに数え上げたものです。今年の数字は4月までです。

昨年11月のご不例以来、陛下のご公務日数は激減し、今年1月は以前の水準に回復しましたが、今年2月のご入院後はふたたび激り、4月はまた増えました。

平成 17 18 19 20 21 22 23 24
1月 22 21 22 21 19 23 23 23
2月 17 18 19 22 19 17 17 11
3月 23 22 22 25 24 26 22 11
4月 21 22 20 20 21 22 23 19
5月 20 25 22 19 20 23 20
6月 24 23 22 25 25 23 23
7月 18 20 21 22 27 20 23
8月 23 18 22 19 19 23 21
9月 22 26 22 25 22 23 23
10月 25 25 24 24 26 24 25
11月 26 25 26 26 22 24 10
12月 22 24 22 16 24 23 18
合計 263 269 264 264 268 271 248

宮内庁がご公務ご負担軽減策を打ち出したのは平成20年2月で、その実施は翌年からのはずでしたが、同年秋のリーマン・ショック後、陛下はにわかにご体調を崩され、20年暮れにはご公務のお取り止めも行われました。

けれども、20年1月のご公務の調整・見直し実施が表明されたあとも、ご公務の日数は減るどころか、逆に増え、22年は271件と、過去最高のレベルにまで達し、昨年10月までご多忙ぶりにほとんど変化が見られず、昨年のご不例後も今年1月にはご多忙の日々にもどっています。2月のご入院、外科手術、ご静養のあとも、4月には以前の水準にほぼもどりました。

明らかに、ご不例のたび、そのときはご公務の日数が減り、しばらくすると元に戻るという繰り返しです。20年2月にご公務ご負担軽減が打ち出されてから4年あまり、その効果は上がっているといえるのでしょうか?


▽3 宮澤俊義東大教授の天皇論

今回の仙台市ご訪問も、イギリスご訪問も、この延長線上にあるのではないか、と疑われます。

戦後の憲法学会に巨匠として君臨し、いまなお憲法解釈・運用に多大な影響力を持つ宮澤俊義・東大教授(故人)は、『憲法と天皇──憲法二十年(上)』(UP選書、1969年)に、次のように書いています。



以下、続きは、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンで。
宮澤教授の文章に、「人を不快にさせる表現が含まれている」ということで投稿が完了しません。

http://melma.com/backnumber_170937_5559683/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

宮中祭祀を「法匪」から救え──「文藝春秋」2月号掲載拙文の転載2

2012/04/22 16:14

 

▽3 皇室の伝統儀礼と似て非なる「即位の礼」

平成2(1990)年、「即位の礼」が行われました。しかしこの「即位の礼」は皇室伝統の即位礼とは似て非なるものでした。

先述したように、政府は「即位の礼」を行うことの根拠を皇室典範第24条に置いています。そして、その中身については、明文的規定がないということで、内閣に委員会が段階的に設置され、検討されました。

『平成即位の礼記録』に興味深い記述があります。準備委員会(平成元年9月設置。委員長=森山眞弓内閣官房長官)に15人の参考人の1人として呼ばれた反対派と目される識者が、皇室典範改正当時の議論に言及し、次のような意見を述べたというのです。

「現行の皇室典範制定に際して、当時の金森徳次郎国務大臣が『即位の礼』の予定しているところは信仰に関係のない部分であり、大嘗祭は含まれない旨、答弁している」

皇室典範改正当時の議論を一次資料で振り返ると、さらに興味深い事実が分かります。金森大臣は大嘗祭の挙行を否定するような発言などしてはいません。むしろ逆です。

前掲の『皇室典範』によると、21年12月5日、帝国議会で皇室典範案について、第一読会が行われました。議事速記録に即位践祚に関する議論が載っています。

吉田茂首相の提案理由説明のあと、発言したのは吉田安議員でした。皇位継承資格、女帝問題などに続いて、「現行典範には践祚即位の章が設けられているの に、改正典範案はあっけない規定しかない、これで完全といえるか」と質問し、これに対して金森大臣が答弁しているのですが、答弁から浮かび上がるのは、次 の3点です。

(1)典範改正案には「践祚」という文字は消えたが、中身に変更はない、と少なくとも金森大臣は考えていたこと

(2)少なくとも即位礼について、中身について変更はない、と考えられていたこと

(3)改正案に大嘗祭についての記述がないのは、信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたこと。つまり、大嘗祭の挙行が不適当だと考えられたわけではないこと

金森大臣は「即位の礼に関しましては、今回制定せられまする典範のなかに、やはり規定が設けてありまして、実質において異なるところがございません」と明 言しています。皇室の法律である皇室令から国会が定める法律に皇室典範の位置づけが変わり、条文の表現が変わっても、皇室行事の体系はいささかも変わらな いという認識です。

したがって数カ月後、22年5月3日に現行皇室典範日本国憲法とともに施行され、その前日に皇室令は廃止されましたが、皇室の伝統はそのまま維持されたのです。

であればこそ、何度も言及したように、このとき「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とする宮内府長官官房文書課長名の依命通牒が出されたのでした。

そして50年8月の宮内庁長官室会議で、宮内官僚たちがこの依命通牒を人知れず反故にするまで、この通牒は生きていました。

依命通牒が廃棄されることがなければ、政府や宮内庁が検討委員会、準備委員会などを立ち上げ、参考人まで呼んで、何か月にもわたり、大がかりに「即位の礼」の「中身」を検討する必要はありませんでした。

ともあれ、平成2年1月19日の閣議は、皇室典範を法的根拠として、同年11月に「即位の礼正殿の儀」「祝賀御列の儀」「饗宴の儀」の3つの儀式を「即位 の礼」として挙行することを決定しました。けれども、皇室典範の立法者たちはそのような「即位の礼」を「予定」していたわけではないでしょう。まして平成 の御代替わりに行われたような、「即位の礼」に践祚の式の一部を含めることは予想だにしなかったでしょう。


▽4 大嘗祭は「稲作中心社会の収穫儀礼」か

さて、大嘗祭です。大嘗祭こそ、最大のテーマでした。「きわめて宗教色が強いので、大嘗祭をそもそも行うか行わないかが大問題になりました」と当時の石原内閣官房副長官はその著書で振り返っています。

内閣に設置された即位の礼準備委員会は、3か月間の作業をもとに、平成元年12月21日、即位の礼、大嘗祭の挙行などについて、検討結果をまとめました。

大嘗祭については、国事行為として行うことが困難とされ、皇室の行事として行われる。その場合、大嘗祭は公的性格があり、費用は宮廷費から支出することが相当と考える、というのがその内容で、同日の臨時閣議で内閣官房長官から報告され、口頭了解されました。

けれども、この結論は、大嘗祭とはいかなるものと考えたうえでのことだったのか。大嘗祭の本質に関する理解を十分に深めることなく、平成の即位礼、大嘗祭を挙行したのではないかと疑われます。

というのも、内閣の『平成即位の礼記録』は、「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」と説明しているからです。肝心な粟の存在が抜け落ちています。

天皇の祭祀に粟は重要です。大嘗祭は天皇が即位後に行われる一世一度の大がかりな新嘗祭ですが、昭和天皇の祭祀に携わった八束清貫・元宮内省掌典は、「こ のお祭り(新嘗祭)にもっとも大切なのは神饌である。なかんずく主要なのは、当年の新米・新粟をもって炊いた米の御飯(おんいい)および御粥(おんか ゆ)、粟の御飯および御粥……」と説明しています(八束「皇室祭祀百年史」=『明治維新神道百年史第一巻』所収、昭和41年)。

大嘗祭が「稲作中心社会の収穫儀礼」なら稲の儀礼で十分です。天照大神が邇邇藝命(ににぎのみこと)に斎庭(ゆにわ)の稲穂を授けたという天孫降臨神話だけを考えるなら、天照大神に稲の新穀を供し、祈りを捧げれば十分なはずです。

しかし新帝は天照大神ほか天神地祇に、米のみならず粟の新穀を捧げ、祈られます。なぜなのか。

現代を代表する民俗学者で、稲作民俗、焼畑民俗の両方を研究する野本寛一・近畿大学名誉教授は、私の取材に対して、「米の民である稲作民と粟の民である畑作民をひとつに統合する象徴的儀礼として理解できるのではないか」と指摘しています。

日本には古くから粟の民俗があったようで、野本名誉教授は『焼畑民俗文化論』(昭和59年)のなかで、水田稲作以前の民が粟や芋を栽培していたこと、粟や 麦を主食とする焼畑の村ではかつて旧暦10月10日にアワオコワやオカラク(粢[しとぎ])を畑神様に捧げていたこと、などを紹介しています。

新嘗祭、大嘗祭は、稲の収穫儀礼ではなく、稲作儀礼と畑作儀礼という淵源の異なるふたつの儀礼の複合と理解されますが、それならば、なぜ天皇は複合儀礼を行われるのか。

日本列島には古来、稲作民もいれば、畑作民もいます。山の民も海の民もいます。それぞれの土地にそれぞれの暮らしと文化、そして信仰があります。そのよう な多様な国民を、多様なるままに統合し、社会の平和を保ち、暮らしを安定させるのが統治者の役割であり、歴代天皇は政治権力や軍事力によらず、公正かつ無 私なる祈りによって実現しようとしてきた。そのための米と粟の複合儀礼ではないでしょうか。

宗教という観点からいえば、天皇の祭祀は国民の信教の自由を侵すのではなく、逆に保障するものとして機能してきたと理解されます。天皇は民が信じるあらゆ る神々に祈りを捧げます。古代において仏教など海外文化受容の中心は皇室であり、近代においてキリスト教の社会事業を深く理解され、経済的、精神的に支援 されたのも皇室でした。であればこそ、天皇は歴史的に、憲法に謳われるように、国の象徴であり、国民統合の象徴と仰がれてきたのではないのでしょうか。

もしそのように理解されるのなら、皇室の伝統と現行憲法の趣旨を対立的にとらえ、御代替わりの儀礼に「宗教色がある」として、国の行事から排除したことは、あまりにも愚かしい最大の失態といえます。

前出の小嶋教授が批判しているように、憲法の「政教分離」は国家に宗教的「無色中立」性を求めることだと解釈する憲法論にこそ間違いがあるように思います。

小嶋教授によれば、厳格な政教分離を要求する憲法解釈は、(1)占領初期に神社神道からの国家の「分離」を要求した、いわゆる神道指令の影響、(2)「国 家が特定の宗教を優遇することは他の宗教を抑える結果になり、すべての宗教を等しく優遇することは無宗教の自由を抑制する結果になる点で、同様に信教の自 由に反する」と解釈する、宮沢俊義東京大学教授(故人)の憲法論の影響などが考えられるといいます。

けれども、憲法解釈を占領政策と同一視しなければならない理由はないし、占領後期になれば占領軍の政策自体が緩和され、貞明皇后の御大喪も伝統に従って行 われている。信仰者より無神論者を優遇するような憲法解釈は信教の自由を認める憲法に反する、と小嶋教授は批判しています。

戦後、憲法学の巨匠として君臨したのが宮澤教授ですが、天皇主権か国民主権か、を強く意識し、8月革命説を唱えた宮沢流の憲法論こそが、平成の御代替わり に大きく影響を与え、無宗教・非宗教主義を援助、助長、促進し、皇室の宗教的伝統を圧迫し、干渉したのではないかと推測されます。天皇の本質を十分に見極 めないままに、です。

永田元掌典補がインタビューで明らかにしているように、無神論者を自認する富田長官の時代、天皇より憲法に忠誠を誓う「国家公務員」たちによって、皇室の伝統が断絶させられ、天皇の祭祀が激変したことが、あらためて想起されます。

次の御代替わりに向けた、正常化への取り組みが直ちに開始されなければ、悪しき先例が繰り返されると心から危惧されます。(筆者注。引用文は適宜編集してあります)

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5545530/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

宮中祭祀を「法匪」から救え──「文藝春秋」2月号掲載拙文の転載1

2012/04/22 16:14

 

 前回に続き、「文藝春秋」2月号の特集「昭和の終わりと平成の次の世」に掲載された拙文を転載します。今回は永田忠興元宮内庁掌典補インタビューの解説です。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/255

編集部から「・デー」について企画を考えている、宮中祭祀について書いてほしい、ジャーナリズムの視点が必要だ、書けるのはあなたしかいない、という打診があったのは一昨年でした。

陛下はまだまだお元気なのに、次の御代替わりというテーマは穏やかではありません。けれども、陛下のご体調は表向き以上に良くないという情報もありました。

永田インタビューが明らかにしているように、昭和から平成への御代替わりは十分な準備が整わず、後手に回り、皇室の伝統からはずれた諸行事が行われました。いみじくも掲載記事のリードには「昭和の失敗」とありますが、次の御代替わりにおいて、先例踏襲ならいざ知らず、正常化が図られるためには、陛下がお元気なうちに、それ相当の準備が求められます。

なお、記事には若干の加筆修正が加えられてあります。

 



昭和から平成への御代替わりは、本誌掲載の永田忠興・元宮内庁掌典補インタビューが浮き彫りにしているように、悠久なる皇室の歴史と伝統にそぐわない、さまざまな不都合がありました。

それらはつまるところ、3点に集約されます。(1)皇室の伝統が側近によって断絶された戦後史の事実が見落とされていること、(2)国家に非宗教性を要求する異様な憲法解釈・運用の実態があること、(3)古来、祈りによって国と民を統合してきた天皇統治に関する無理解があること、の3つです。

そこで改めて、政府の公式記録などをもとに、(1)践祚(せんそ)、(2)御大喪、(3)即位礼、(4)大嘗祭、の4つの局面について振り返り、政府の中枢で、深層において何が起きたのか、次なる「デー」に向けて何が危惧されるのか、課題は何か、を考えてみたいと思います。


▽1 失われた「践祚」という伝統概念

まず践祚、すなわち皇位の継承です。

宮内庁がまとめた『平成大礼記録』(平成6年)に記述されているように、旧登極令(とうきょくれい)によれば、大行天皇崩御のあと、新帝は皇位継承のため、(1)賢所の儀、(2)皇霊殿神殿に奉告の儀、(3)剣璽渡御(とぎょ)の儀、(4)践祚後朝見の儀からなる践祚の式を、国務として行うこととされていました。

けれども、日本国憲法下での最初の事例となった平成の御代替わりでは違っていました。

政府は、相当する儀式を現行憲法下でどう位置づけるかを検討し、その結果、一連の儀式を国の行事と皇室行事との二つに区分し、(1)(2)は政教分離の趣旨に照らして、国の儀式とすることは困難とされ、皇室行事となり、非宗教的と見る(3)(4)だけが国の儀式として行うこととされました。同時に(3)は「剣璽等承継の儀」と非宗教的に改称され、(4)は「践祚」という言葉が消えました。

ここでの問題は、政府が、(1)「皇室の伝統」と「憲法の趣旨」とを対立的にとらえ、(2)皇室の伝統行事を伝統のままに行うことが現行憲法の趣旨に反すると考え、(3)実際、国の行事と皇室行事とを二分し、挙行したことです。なぜそのようにしたのか。

ひとつは、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と憲法第20条第3項に定められる政教分離規定を原理的に解釈した結果であることは明白ですが、それだけではありません。看過できない歴史の重大な見落としがあります。政府は、皇室の伝統の位置づけが大きく変わることになった、戦後の、ある重要な事実にフタをし、口をつぐんでいます。

内閣総理大臣官房が編集・発行した『平成即位の礼記録』(平成3年)は、「即位の礼」が国の儀式として行われた法的根拠が、皇室典範第24条「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」にある、と説明しています。

けれども「即位の礼」の具体的な中身についての明文的規定はありません。そこで、憲法の趣旨に沿い、皇室の伝統を尊重して、内閣の責任において、決定された、と説明されています。

そのため、内閣では「即位の礼検討委員会」(平成元年6月設置。委員長=石原信雄内閣官房副長官)など、段階的に委員会が設けられ、「即位の礼」の中身について、検討がなされたのですが、なぜ泥縄式に政府が検討することになったのか。それは、永田元掌典補インタビューが明らかにしているように、連綿たる宮中祭祀の歴史を、官僚たちが密室で断絶させてしまったからです。

昭和22(1947)年5月、日本国憲法が施行されたのに伴い、戦前の皇室令が「廃止」されましたが、宮内府長官官房文書課長高尾亮一名による依命通牒(いめいつうちょう)、いまでいう審議官通達で、「従前の規定が廃止となり、新しい規定ができていないものは、従前の例に準じて事務を処理すること」とされました。

この依命通牒によって、18か条の本則のほか、附式の第1編で「践祚の式」を、第2編で「即位礼および大嘗祭の式」を事細かに定めていた登極令の「中身」はもちろん、宮中行事の全体が、辛うじてではあるにしても、新憲法下でずっと生きていました。

であればこそ、34年4月の皇太子殿下(今上陛下)の御結婚の儀は、閣議決定により「国事」とされ、旧皇室御婚令に準じ、宮中の聖域、賢所大前で行われました。

ところが、時まさに宇佐美毅宮内庁長官、富田朝彦次長の時代、50年8月15日の宮内庁長官室会議以後、文書課長の依命通牒は反故(ほご)にされ、宮中行事の明文的根拠は完全に失われました。このため昭和天皇崩御から5か月も経って、「即位の礼」の中身を検討する必要に迫られたのです。依命通牒が廃棄されず、「宮内庁関係法規集」から消えなければ、政府の検討は無用でした。

「践祚後朝見の儀」の名称変更はその結果のひとつです。宮内庁の記録は「もともと践祚は即位と同義語であり、また、皇室典範制定の際、践祚を即位に改めた経緯があるので」と説明していますが、誤りです。

践祚とは皇位を継承することを意味します。桓武天皇の時代、践祚から日を隔てて即位式を行うようになり、貞観(じょうがん)儀式の制定で両者は区別されるようになったといわれます。

けれども戦後の混乱期に行われた皇室典範の改正はこの区別を反映できず、その後、政府は正常化の努力を怠ったのみならず、歴史の断絶を人知れず行い、さらに平成の御代替わりは「践祚」という用語と概念を完全に喪失させてしまいました。

そして、あろうことか、践祚の式の一部が皇室典範第24条に規定される「即位の礼」の一環として行われました。皇室の伝統の破壊といわずして何でしょう。

もうひとつ、歴史の見落としがあります。

朝見の儀で、さらに決定的な変更がありました。皇位の象徴である剣璽の御動座を、かつては伴っていたのですが、平成の「即位後朝見の儀」では行われませんでした。理由は、宮内庁の記録では「昭和21年6月の(昭和天皇の)千葉県下の御巡幸以降、剣璽は御動座しないことが原則になっている」ことなどを勘案したため、と説明されています。

しかし事実は異なります。21年の占領下の御巡幸以来、久しく行われなかった剣璽御動座は、49年、昭和天皇伊勢神宮行幸に際して、28年ぶりに復活しています。宮内庁の記録はこの歴史を無視しています。

剣璽御動座が伴わなかったのは、神代の時代、天孫降臨に際して天照大神から授けられたと信じられ、歴代天皇が継承してきた三種神器の持つ宗教性を、政府が忌避したのが真相ではないでしょうか。「渡御」という宗教用語を避け、「剣璽渡御の儀」を「剣璽等承継の儀」に改変させたのも同様です。

政府は、宗教性を排除することが憲法の趣旨だと頑なに考えているようです。けれども、憲法学者の小嶋和司・東北大学教授(故人)の指摘はまったく逆です。憲法は国家に宗教的「無色中立」性を要求してはいません。「政教分離」を「宗教性」排除の意味とする解釈は憲法の個々の規定からは見いだせません。

憲法第89条は宗教団体、慈善団体、教育機関への公金の支出を禁じていますが、現実には、国立大学で宗教研究・教育が認められ、教育基本法は「宗教に関する寛容の態度」の尊重を謳い、文化財保護法は特定の神社・仏閣を国費で修復することを許しています。憲法第20条第3項は「特定の宗教のための宗教的活動をしてはならない」という意味に解釈すべきだと小嶋教授は指摘していますが、むろん皇室の儀礼が特定の宗教であるはずもありません(『小嶋和司憲法論集三 憲法解釈の諸問題』1989年)。


▽2 立法者の想定と異なる「大喪の礼」

平成元(1989)年2月24日、昭和天皇の「葬場殿の儀」と「大喪の礼」が新宿御苑で行われました。「大喪の礼」は過去の歴史にない新例でした。皇室行事としての伝統的な「葬場殿の儀」に、国事行為である「大喪の礼」を加え、しかも分離して挙行されました。「大喪の礼」では祭官が退出し、鳥居と大真榊(おおまさかき)が撤去されました。

当時の報道によれば、当初は、鳥居は建てられない予定でした。しかしその後、「葬場殿の儀」に限って鳥居が建てられ、「大喪の礼」では大真榊とともに取り外されました。なぜ建てられない予定だったのか、なぜ撤去されたのか。なぜ2つの儀礼が分離方式で行われたのか。そもそもなぜ「大喪の礼」が新例として行われたのか。

宮内庁の『昭和天皇大喪儀記録』(平成5年)によれば、昭和天皇の崩御後、日本国憲法下ではじめて行われる御大喪のあり方について、憲法の趣旨に沿うかどうか、皇室の伝統を尊重したものかどうか、時代に即したものかどうか、など内閣を中心に、検討されました。

既述したように、昭和22年5月の依命通牒を宮内庁が50年に廃棄していなければ、大袈裟な検討など必要はありません。皇室伝統の御大喪が憲法の趣旨に沿うかどうか、というのも、自明です。貞明皇后の御大喪が26年6月に、旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しているからです。

このときの事情を、35年1月、内閣の憲法調査会第三委員会で、宮内庁の高尾亮一皇室経済主管(当時)が次のように証言しています。

「当時、占領下にありましたので、占領軍ともその点について打ち合わせを致しました。……占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってかまわない。それは憲法に抵触しない、といわれました」

ところが、平成の御代替わりでは、この先例が廃棄され、宮内庁の説明に従えば、政府の検討が行われ、その結果、皇室伝統の大喪儀は皇室の行事として、伝統に従い、旧制を斟酌して行われることとなり、一方、皇室典範第25条に定める「大喪の礼」は、国の儀式として、憲法の趣旨に沿い、かつ皇室の伝統を尊重して行うこととなりました。

宮内庁の記録の解説から分かるのは、(1)占領期の憲法解釈より大きく後退し、皇室伝統の大喪儀を国の行事として行うことは憲法の趣旨に反すると考えられていること、(2)皇室典範第25条に定められる「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」の「大喪の礼」は皇室伝統の大喪儀とは別だと考えられていること、の2点です。なぜそう考えるのか。

宮内庁の記録によれば、皇室の葬制は旧皇室喪儀令で集大成されました。昭和22年5月2日をもって廃止されましたが、貞明皇后大喪儀、秩父宮雍仁(やすひと)親王喪儀、高松宮宣仁(のぶひと)親王喪儀は旧皇室喪儀令に準じて行われました。そして昭和天皇大喪儀も旧皇室喪儀令に定める皇室の伝統的方式に従って行われるが、依るべき定めがなくなっているので、大喪儀委員会で挙行方針が定められた、と説明されています。

しかし「定めがなくなった」は誤りです。側近たちが依命通牒を廃棄したのが真相です。ミスを取り繕っているのです。

ともあれ、政府は、現行法制下では、皇室典範第25条に「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と定めているだけである。この「大喪の礼」は憲法第7条が天皇の国事行為の1つとして定める「国の儀式」として行われることを予定したものと解釈されるけれども、現行法には明文の規定がない。そこで、内閣に設置された大喪の礼委員会の協議を経て、そのあり方が決定された、と説明しています。

そして、皇室伝統の「葬場殿の儀」は国事行為として行えない、と解釈されました。その理由は、祭官、鳥居、大真榊が社会通念上、宗教的に重要な意義を有すると考えられ、儀式上、重要な要素を占めているから、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定める憲法に違反する疑いを否定することができない、とされたからです。

このため、「大喪の礼」においては、宗教性を排除するため、祭官は退席し、鳥居・大真榊は撤去されたのでした。

しかし皇室典範が定める「大喪の礼」とは新例を意味すると考えるべきなのか。皇室典範の制定過程を振り返れば、少なくとも立法者は逆に、皇室伝統の御大喪を意味すると理解していたのではないか、と推測されます。

なぜなら、立法過程の資料を集めた『皇室典範』(日本立法資料全集1、平成2年)によれば、政府の皇室典範改正案として枢密院の審査にかけられ、第91回帝国議会に提出された確定案は「第25条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と明記されていますが、総司令部に最終的に提出したとされる、その英訳は「Article 25. When the Emperor dies, the Rites of Imperial Funeral shall be held.」であり、「大喪の礼」が一つの儀式(the Rite)ではなく、複数形の諸儀礼(the Rites)として表現されているからです。

皇室典範に規定される「大喪の礼」は、新例としての「大喪の礼」ではなく、皇室伝統の形式による大喪儀の諸儀礼を意味していると考えるのが妥当だと思います。

けれども御大喪を非宗教化させる急先鋒は、ほかならぬ内閣法制局でした。

御代替わり当時、政府の中枢にあったキーパーソンの一人、石原信雄内閣官房副長官の著書『官邸2668日』(1995年)には、「当時の味村治法制局長官以下、法制局が、『どう考えても鳥居は宗教のシンボルだから、鳥居を置いたまま国事行為を行うわけにはいかない、絶対ダメだ』と主張していたことが原因だ」と記述されています。

味村長官はもっぱら法曹畑を歩み、最高裁判事にまで上り詰めた、法律のプロ中のプロですが、そもそもは商法の専門家であり、残された数十冊の著書は商法関連のものばかりです。宮中行事に関する知識はきわめて乏しかったのではないかと想像します。

宗教色のない葬送儀礼など、この世にあろうはずはないのに、まして神代にまで連なるとされる歴史を持つ皇室と宗教性は不可分です。憲法はむしろ宗教の価値を認めています。なぜあえて宗教性を排除しようとするのか。

たしかに憲法は国の宗教的活動の禁止などを定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂では年2回、慰霊法要が都内の5つの寺院の持ち回りで行われています。カトリックの世界的巡礼地である長崎の26聖人記念碑は市有地に立地し、小泉内閣時代以降、首相官邸などでイスラムの断食明けの行事が行われました。

しかし、宮中祭祀や神社のこととなると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてくるのです。つまり宗教政策の二重基準です。

その結果、「大喪の礼」という新例が行われ、国の行事と皇室行事との二分方式が採られ、厳粛であるべき御大喪で、鳥居などを撤去するドタバタ劇が演じられました。

現行憲法および現行皇室典範などの制定の直接的責任者だった井出成三・元法制局次長は、その後を予見するかのように、何十年も前に、分離方式を批判しています。

「宮中祭祀は憲法上、いわゆる宗教であり、国費を支出して行い、国家機関たる地位にあるものが参列することは、憲法上問題があるとして、式典を二分して観念し、皇室の儀式は公の機関でない掌典職が執り行い、費用は内廷費で賄い、別途に国の式典を行い、宮中祭祀の色彩を一切除去することが正しいと考え、あるいはその一方を行うほかはないと考えることは、形式的な解釈に引きずられて、本質を見失っているのではないか」(井出『皇位の世襲と宮中祭祀』昭和42年)

 

 

(2に続く)

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──「文藝春秋」今年2月号インタビューの転載2

2012/04/17 20:40

 

▽7 真田秀夫・内閣法制局長官の答弁

──御代替わりに関する最大の問題は、宮中祭祀に対する偏見、それによる厳格な政教分離主義でしょうか?

永田 昭和54(1979)年4月に衆議院内閣委員会で、元号法に関する質疑が行われたとき、上田卓三・社会党議員は「元号の法制化は践祚・大嘗祭その他の皇位継承儀礼の法制化へと道を開く危険性を十二分に持っているのではないか」と迫りました。

これに対して真田秀夫・内閣法制局長官は、「従来の大嘗祭は神式のようだから、憲法20条3項(国の宗教的活動の禁止)から国が行うことは許されない。それは別途、皇室の行事としておやりになるかどうか……」と答弁しました。

──大嘗祭は、皇位を継承された天皇が最初に行われる新嘗祭で、神道儀式あるいは宗教的儀式というより、皇室の伝統儀式でしょう。むろん国と国民のためになさる天皇の即位儀礼が私的行為であるはずはありません。国民の信教の自由を侵すはずもありません。

戦後の混乱期には「祭祀は皇室の私事」という憲法解釈を便宜的に取らざるを得なかったとしても、その後、正常化が図られ、34年に賢所で行われた皇太子殿 下御結婚の儀は政府決定により「国事」とされ、39年の常陸宮殿下、55年の?仁(ともひと)親王殿下の御結婚の儀は「公事」とされたという経緯がありま すね。

ところが真田長官は、大嘗祭は神道儀式だと断定した。

永田 天皇否定論者の政治的批判や国家神道批判の高まりを恐れたのでしょう、国が神道儀式を行うことは、憲法が禁止する国の宗教活動に当たる、という絶対分離主義的な見解を示し、神道儀式か否かで、国の儀式と皇室行事とを区分する構想を明らかにしたのです。

そしてこの真田答弁のあと、55年ごろ内閣法制局宮内庁の間で御代替わりに関する準備書類が作られたようですが、まさにこの政教分離問題が御代替わりに大きな影を落とすことになりました。


▽8 ひたすら宗教色を避ける

──たとえば、大行天皇崩御の直後に行われる、皇位の象徴である剣と璽が新帝に引き継がれる「剣璽渡御(とぎょ)の儀」は「剣璽等承継の儀」と改称されていますね。

永田 剣璽等の「等」は御璽と国璽のことで、これらを加えて国家儀式としたのですが、昭和天皇の最晩年になって明らかになってきたのは、この儀式が国事行為として行われる理由付けの卑屈さです。

皇室経済法第7条「皇位とともに伝わるべき由緒ある物は、皇位とともに、皇嗣がこれを受ける」を法的根拠とする、つまり、天皇の由緒ある文化的財産を新帝が相続する儀式だから国事行為とする、という解釈です。

──国家神道批判を恐れるあまり、ひたすら宗教色を避けたということですね。

永田 じつに萎縮した考え、といわなければなりません。

皇位の継承を践祚(せんそ)といいますが、平成の御代替わりでは宗教色を極力避けるという発想から、この践祚という言葉は使われませんでした。このため「践祚」と「即位」の区別が付かなくなり、平安時代以来の伝統の破壊が行われました。

もっとも注目されたのは、大行天皇崩御の49日目に行われた斂葬(れんそう)の儀(葬場殿の儀および陵所の儀)の式次第です。

本葬に当たる宗教的な葬場殿の儀は、大正天皇の場合は夕刻から行われましたが、昭和天皇の場合は昼間行われることになり、しかも国が多くの国賓などを招いて国葬として行う無宗教的な、まったくの新例である大喪の礼と、奇妙にドッキングして行われることになりました。

同日に、同じ場所で、皇室の行事としての葬場殿の儀と国の行事としての大喪の礼を二部立てで挙行するなど、とんでもないことです。

──「国はいかなる宗教的行為もしてはならない」という憲法の条文に忠実なあまり、取り返しのつかない前例を作ったことになる。

永田 国が御大喪を営むこと自体、宗教的行為なのですから、まったく矛盾していますが、この悪しき先例は、正常化への強い意思を持たないかぎり、今後も引き継がれることになるでしょう。

同様にして、大喪の礼は国家予算で行い、それ以外は宮内庁予算とするのも姑息でした。

「宗教色を除く」ために、大正天皇の御大喪では行われた葬列もなくなりました。そのため一般国民が霊柩をお見送りする機会はほとんど失われました。

葬列のない初例は昭和62年2月の高松宮殿下の御喪儀で、牛車でも馬車でもなく、自動車が用いられました。この前例が踏襲されたのです。

──宗教色を薄めるため、という官僚的な発想から、当初は大喪の礼が行われる新宿御苑の総門から葬場殿までの間に設置されるふたつの鳥居は、作らないこととされました。

永田 結局、簡易式の鳥居が設置されることになったのですが、葬場殿の儀のあと、大喪の礼では大真榊(おおまさかき)とともにはずされました。

鳥居、大真榊を神道のシンボルと見るからでしょうが、浅薄です。大阪・四天王寺には日本最古の石の鳥居がありますし、仏教ではシキミと呼ばれる常緑樹を仏前に供えます。

憲法政教分離原則は国民の信教の自由を確保するためにあるはずです。天皇がなさる宮中祭祀は信教の自由を脅かすものなのでしょうか。天皇の祭祀は宗教法人法上の宗教なのでしょうか。


▽9 大嘗祭を無宗教化したかった

──天皇が即位後、最初になさる新嘗祭が大嘗祭で、皇祖神はじめ天神地祇の神々に米と粟の新穀を供え、みずから召し上がるという皇室伝統の儀式ですが、やはり混乱が起きた?

永田 御大喪が無原則なら、大嘗祭も無原則になりました。宗教を忌避する姿勢が最大の原因です。

当時、大嘗祭について、宮内庁内で懸念されていたのは、折口信夫流の真床覆衾(まどこおぶすま)論の広がりでした。

── 大嘗宮の内陣に設けられた神座が、八重畳のうえに坂枕をおき、覆衾をかけた寝座であることから、折口は、天孫降臨に際して瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が真 床覆衾にくるまって降りてこられたとする神話と連関させ、新帝が覆衾にくるまって天皇としての新たな生命を得る儀式がかつてあったのではないか、と文学者 ならではの想像を働かせた。それ以降、新帝が先帝の遺骸に添い寝するという、オカルト的なことがいまも行われているかのような主張がしばしばなされてきた わけですね。

永田 新帝陛下がひとりでなさるという意味の「秘儀」という言葉が独り歩きし、おどろおどろしげな空想が拡大していくのを、宮内庁は非常に心配していました。

おりしもこのとき國學院大學の岡田荘司教授(神道学)が否定論を書き、宮内庁がこれに飛びつきました。一研究者の学説に行政が関係するというのもそもそも あり得ないことで、岡田教授自身、びっくりされたようですが、それだけ当時の宮内庁はオカルトチックな神秘的イメージを払拭したかった。言い換えると、逆 に大嘗祭を無宗教的なものとしてイメージさせたかったのです。


▽10 装束を着るのは時代錯誤?

──昭和天皇は昭和62(1987)年4月、86歳のお誕生日の宴会の儀で御体調を崩され、その後、御不調を訴えられるようになり、9月には開腹手術を受けられました。政府および宮内庁が御代替わりの準備を公式に始めたのは、そのあとですね?

永田 63年6月、宮内庁次長、管理部長、書陵部長、皇室経済主管、式部副長、審議官をメンバーとする幹部会が設けられ、毎週定期的な協議が行われ、7月には次長から昇格したばかりの藤森昭一長官が準備指令を出しました。

昭和天皇が崩御になり、この日、1月7日に宮内庁では、宮内庁長官を委員長とする大喪儀委員会が設置され、休日を除き毎日夕刻から会議が開かれました。

庁内では葬場殿の儀をどう行うかについて議論が、準備指令のあと、始まりました。

──最初に問題となったのは、装束を着ることだったそうですね?

永田 計画書を提出したら、ある幹部職員は大声を張り上げ、「時代錯誤も甚だしい。こんな古臭い装束では、世界中の笑いものになる。日本の恥だ」とえらい剣幕です。困りました。

装束ですら、これほどの拒否反応ですから、伝統形式の御大喪など不可能です。そこで各方面に慎重に根回しが行われました。その結果、ようやくほぼ喪儀令に則った御大喪が可能になったのです。ただ、実際に伝統の装束を揃えることはたいへんでした。

──しかし、海外からは「さすが日本は歴史が深い国だ」という好印象を得ることができた。

永田 君子は豹変す、といいますが、海外の高い評価が高級官僚たちの態度を一変させ、平成2(1990)年11月の大嘗祭を古式に合わせて挙行することができたのです。

装束といえば、同年11月12日の即位の礼で、天皇陛下はもちろん皇族方は皆さま装束を身につけておられました。最初は洋装でという案もあったのです が、?仁親王殿下が「本来はそう(洋装)でないだろう」というお言葉が牽引力となりました。ただ、海部俊樹首相は束帯ではなく燕尾服でした。

──皇室の伝統、とくに祭祀の伝統を守るというのは、ほんとうに難しいですね。

永田 即位の礼に先だって、本来なら、陛下は威儀者(いぎのもの)を引き連れ、賢所大前の儀、皇霊殿神殿に奉告の儀が行われるべきですが、今回は威儀者が大前に居並ぶことはありませんでした。その理由は驚くなかれ、「時間がない」でした。


▽11 「大嘗宮は不要」高松宮殿下の卓見

──昭和から平成への御代替わりは、一見、伝統に則って行われたようにも見えますが、じつにさまざまな課題を残していますね。

永田 総体的に見ると、国および国民統合の象徴である天皇の御位が継承されるという歴史の節目にあって、諸行事が無原則に、場当たり的に、ご都合主義で行われたことです。

戦前は皇室喪儀令という成文法がありました。大正天皇が崩御になる2カ月前の大正15年10月に公布された、大正天皇の御大喪に合わせたようなものでしたが、当時の頭脳を結集して制度が作られました。けれども平成の御代替わりにはそれがありませんでした。

特別の組織も設けられず、宮内庁の職員は日常の業務をこなしながら、併行して御代替わりに関する仕事に従事することになりました。詳細な記録が作られなかったのはそのためです。職員は正直、ひたすら眠りたいという思いをこらえつつ、毎日午前様の状態が続きました。

──大嘗祭についてはどうですか?

永田 大嘗祭が行われる大嘗宮について、高松宮殿下は「大嘗宮は要らない。神嘉殿でいい」と仰っていました。

殿下は祭祀にたいへん造詣が深い方で、殿下が祭典に参列されると周囲がピリピリしていたほどです。その殿下が「神嘉殿でいい」と仰ったのには、深い考えがあったものと思われます。

今上陛下の大嘗祭には各方面から多くの方々が参列されましたが、参列者からは「祭儀が見えない。聞こえない。寒い。暗い」という不満ばかりが聞かれ、参列を喜びとする声は少なかったと承知しています。

──もともと宮中祭祀は秘儀であり、見られることを想定していません。けれども、天皇の祭りの何たるかを知らずにやってくる参列者は、見えるものだと思い込んでいる。

永田 大嘗宮を建てるにしても、参列者をしぼるべきです。そうでないと、皇室最大の重儀の神聖さを穢してしまいかねません。

即位礼の10日後に大嘗祭が行われるという日程も、再考する必要がありそうです。

昭和の御代替わりが行われたときもそうでした。京都御所で行われた紫宸殿の儀のあと、京都市内はどんちゃん騒ぎでした。天皇陛下の一世一度の重儀が行われる、もっとも静謐(せいひつ)が求められるときに、京都は喧噪の巷と化していたのです。

即位礼と大嘗祭とを、もっと期間を空けるべきだ、と民俗学者の柳田国男が書いているのを読んだことがあります。

平成の大嘗祭では新帝陛下が神前に奏上する、本来、非公開であるべき御告文(おつげぶみ)などがマスコミに事前に漏れたのも、あってはならないことでした。


▽12 求められる祭祀の正常化

──伝統の祭祀に必要な材料や加工技術が得にくくなっているのも気がかりですね。

永田 大嘗祭に先だって、春に亀卜(きぼく)が行われます。神前に新穀を奉る悠紀(ゆき)・主基(すき)の国郡を占いによって決定するのですが、体長1メートル30センチ以上のアオウミガメが必要です。しかし入手は簡単ではありません。

カリフォルニアで肉食用に養殖していることが分かりましたが、ワシントン条約による規制で甲羅(こうら)を輸入することができません。平成の御代替わりでは私たちの人脈で手に入れることができましたが、伝統を実際的に継承することの難しさを痛感したものです。

──大嘗祭には各都道府県から特産品が庭積机代物(にわづみのつくえしろもの)として献納されましたね。

永田 悠紀田・主基田でとれた精米などと同様に、じつはすべて買い上げでした。せっかくの篤農家たちの気持ちを逆なですることはなかったかと気になります。

──最大の問題点は、政治の世界との関係ですか? 福沢諭吉が「帝室は政治社外のものなり」(「帝室論」)と訴えたように、日本の皇室は権力政治を超越した存在でなければなりません。

永田 平成の御代替わりのときは、考えのしっかりした政治家が少なからずおられましたが、将来はどうでしょうか。

戦前は、皇位継承について定める皇室典範は憲法と同格でした。けれども現行の皇室典範は憲法の下位に置かれ、一般の法律と同様、国会の議決で簡単に変えられるようになっています。ここにも問題があります。

天皇は国の最高権威です。皇位の継承は最高の国家的行事として、少なくとも千年の伝統があります。平成の御代替わりを丹念に検証し、謙虚に反省し、祭祀を正常化していく努力が求められると考えます。

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5540785/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

「昭和天皇の忠臣」が語る「昭和の終わり」の不備──「文藝春秋」今年2月号インタビューの転載1

2012/04/17 20:40

 

 昭和から平成への御代替(みよが)わりから20年あまりが過ぎた。今上陛下は78歳。推古天皇以後では、江戸期の霊元天皇と並ぶ、歴代第4位の御長寿と なられた。歴代天皇は若くして退位されており、75歳を超えてなお皇位に就かれているのは、昭和天皇と今上天皇以外にはない。

陛下はま だまだお元気だが、ご高齢なうえにガンを患われ、療養中だ。15年には前立腺ガンの手術をお受けになり、20年には不整脈を患われた。宮内庁はご公務ご負 担の軽減策を打ち出したが、ご多忙の日々が続いている。昨年11月には半月以上も入院された(「文藝春秋」平成23年4月号掲載拙文)。

皇后陛下とともに、いつまでもお元気で、と国民ひとしく願うところだが、どうしても気がかりなのは、平成の御代が終わりを迎える日のことだ。不敬・不謹慎 とのお叱りを受けるかも知れないが、いずれかならずその日はやってくる。皇室の弥栄(いやさか)を心から祈念するがゆえにこそ、来るべき次の御代替わりに ついて考えてみたい。

というのも、昭和の終わりを迎えようとしていたとき、政府は何ひとつ準備態勢ができていなかったからだ。憲法第一章に関する国家の重大事について、原理原則がないまま、長い間、放置されていたのだ。

十分に準備が整わないまま、御代替わりが行われたために、悠久なる皇室の歴史と伝統にそぐわない、さまざまな不都合が生じた。そのような先例が繰り返されないために、現行憲法下で最初の事例となった、前回の皇位継承に関しての謙虚な検証が必要ではないか、と考える。

そこで、昭和天皇の祭祀に20数年、携わり、宮内庁職員の1人として昭和の終わりを体験した、永田忠興元掌典補(しょうてんほ。現在は新潟・彌彦神社宮司)にインタビューを試みた。

永田氏は、職員時代、宮中祭祀の生き字引ともいわれた。「昭和天皇の忠臣」と仲間内から異名をとるほど、昭和天皇の祭祀への情熱に忠実で、「昭和天皇の御大喪(ごたいそう)が滞りなく行われたのは同氏のおかげ」と関係者が一様に評価したほどだ。宮内庁詰めの記者たちの評価も高い、気骨ある名物職員だった。

これまでマスコミの世界にみずから登場することを拒んできた永田氏に、無理に無理をいい、平成の御代替わりに関する問題点、今後の課題について、語っていただいた。(文責・インタビュアー斎藤吉久)


▽1 陛下より憲法に忠実な公務員

──お勤めになっていた宮内庁掌典職とはどのようなところですか?

永田 天皇陛下の祭祀を担当する部署で、掌典長以下、掌典次長、掌典5名、内掌典(ないしょうてん)5名、掌典補6名からなります。

戦前は国家機関でしたが、現行憲法下では公務員とは異なる、陛下のお手元金である内廷費で直接、雇われる陛下の私的使用人という立場になりました。

例外は私たち掌典補で、公務員として採用され、宮内庁式部職に属し、掌典職の庶務のほか、歌会始に関する事務、儀式に関することを担当しています。

──入庁されたころ、つまり昭和40年代の宮内庁は、大きな時代の波に洗われていたと聞きます。

永 田 戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちが定年退職し始め、代わって戦後教育を受けた人たちが入庁するようになったからです。幹部職員には元華族の方 などもおられましたが、外務省、厚生省、自治省、警察庁など、ほかの官庁から横滑りするようになり、皇室に対する考え方が変わり始めました。

──最大の変化が、歴代天皇がもっとも大切にされてきた宮中祭祀ですね?

永田 憲法が定める信教の自由を掲げ、「なぜ祭祀に、公務員が関わらなければならないのか」という意見が口々に出て、祭祀が敬遠されるようになったのです。

戦後世代の職員たちは「陛下にお仕えする」というよりも、「国家公務員である」 という考え方が先に立ちました。皇室の歴史と伝統についての理解は乏し く、逆に、「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」という憲法政教分離規定を、字義通り厳しく解釈・運用する考え方が、まるで新興宗教と見まごうほ どに蔓延し、陛下の側近中の側近である侍従さんまでが祭祀から遠のき始めました。


▽2 依命通牒でつながった祭祀の伝統

──天皇陛下は1年365日、国と国民のための祈りの日々を過ごされていますが、この宮中祭祀について、読者の方に少し説明していただけますか?

永田 陛下の一年は四方拝という神事で始まります。まだ明けやらぬ元日の早暁、御装束(ごしょうぞく)を召され、神嘉殿前庭で神宮(伊勢)、山陵、および四方の神々を御遙拝になられます。

宮中の奥深い聖域、宮中三殿などで陛下が行われる祭祀は、毎日行われる毎朝御代拝のほか、大祭・小祭など、合わせて年間60回を数え、戦前は皇室祭祀令という皇室独自の法律、皇室令に明文化されていました。

──けれども敗戦後、現行憲法の施行に伴い、昭和22(1947)年5月2日をもって皇室令は廃止され、宮中祭祀の法的根拠は失われたわけですね。

永田 それでも、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書部長名の依命通牒、いまでいう審議官通達によって、祭祀の伝統は引き継がれてきました。

当時は占領期です。昭和20年暮れにGHQが発令した、いわゆる神道指令は「宗教を国家から分離すること」を目的とし、駅の門松や神棚までも撤去させるほ ど過酷でしたから、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが政府の方針でした。

──GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては、干渉しなかった。

永田 であればこそ、申し上げましたように、祭祀に従事する掌典職員は内廷費で雇われ、公務員ではなく、天皇の私的使用人として位置づけられるようになったのです。

──それでも「祭祀は天皇の私事」という憲法解釈を超えられなかった?

永田 終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があったけれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したと承知しています。

──先人たちは過酷な占領政策に精一杯、対処したけれども、逆戻りしてしまった。

永田 戦後20年も経つと、高級官僚たちはまるで法匪(ほうひ)と化し、先人たちの血の滲むような努力を踏みにじっている、と情けなく思ったものです。


▽3 気骨ある人材がいなくなった

──宮中祭祀以外にも影響がありましたか?

永 田 たとえば宮中には、吹上御苑に祀られている山の神様の祭りや、鍛冶屋(かじや)さん特有の守護神をまつる「ふいご祭り」など、民間信仰に基づく神事が 伝えられています。こうした伝統的神事に、以前は管理課長以下が参列していました。けれども、やはり昭和40年代以降、「公務員だから」と理由で、直接の 関係者のみで内々に行われるようになりました。

──宮中第一の重儀である新嘗祭(にいなめさい)に欠かせないお酒、白酒(しろき)黒酒(くろき)もそうなんでしょ?

永田 57年までは皇居内で掌典職が造っていましたが、いまは外注されるようになりました。

──新嘗祭の造酒は延喜式(えんぎしき)に造り方が記載されていますから、少なくとも千年以上の長い歴史があります。造酒司(みきのつかさ)が担当してきた伝統が崩れたということですね。

永 田 いまの宮殿は39年に着工し、43年に落成しましたが、管理部長を務めた高尾亮一氏によると、新宮殿建設のとき、あらゆる配慮がなされました。宮殿の 庭が京都の紫宸殿(ししんでん)南庭より広く取ってあるのは、即位儀礼が宮殿で行われる場合を想定してのことだったといいます。

かつてはそういう将来への見通しや見識、そして骨のある人材が庁内にいたのですが、今は昔です。


▽4 無神論者を自認する富田宮内庁長官

──祭祀改変の原因は何でしょう?

永田 問題は、他の省庁のキャリア組が宮内庁に集まるようになり、それまでの宮内庁でなくなったことです。

たとえば、49年11月に内閣調査室長から宮内庁次長に就任し、53年5月に宇佐美毅長官に代わって、宮内庁長官に昇格した富田朝彦氏がそうでした。

──富田長官は思想的には無神論者を自認していたそうですね。

永田 まだ次長のころ、宮内庁病院でお会いしたとき、「掌典職の方ですよね。僕は無神論者なんですよ」といきなり話しかけてこられて、驚いたのを覚えています。

東京帝国大学法学部を卒業し、内務官僚、警察官僚を経験した長官は、法律や行政には精通していたでしょうが、天皇陛下本来のお務めである祭祀についての理解はきわめて乏しかったのではないかと思います。

──そして富田長官の時代、憲法政教分離原則が独り歩きし、無宗教的な政策が進められていった。

永田 富田長官は陛下の側近中の側近でありながら、宮中最大の重儀である新嘗祭をはじめとする大祭に、皇族方や、総理大臣以下、三権の長が参列する場合でも、不参のことが多かったように記憶しています。


▽5 天皇不在で変更された毎朝御代拝

──戦後の宮中祭祀は、昭和22(1947)年5月の宮内府長官官房文書課長の依命通牒という、いわば官僚の紙切れ一枚によって、伝統が辛うじて守られてきたということですが、いまは違うのですか?

永田 この依命通牒は『宮内庁関係法規集』から、50年9月突然、消えました。どのような経緯があったのか、詳細は分かりませんが、このとき天皇陛下の祭祀は明文法的根拠を完全に失ったのです。

そして現実に、50年9月1日以降、毎朝御代拝の服装、場所が急に変更されました。庁外からの「外圧」でもあったのでしょうか。

── 毎朝御代拝は、天皇が毎朝、御自身の代わりに、側近の侍従を潔斎のうえ、宮中三殿に遣わし、烏帽子・浄衣に身を正し、殿内で拝礼させるものですね。平安時 代に始まる、歴代天皇がみずから神宮(伊勢)などを遙拝された石灰壇御拝(いしばいだんのごはい)に連なる歴史ある重儀です。

永田 ところが服装は洋装のモーニング・コートに、拝礼は庭上から、と変更されました。「侍従は国家公務員だから、神道という宗教にタッチすべきではない」として、神道色を薄めるための配慮がなされたと説明されています。

──「公務員だからいけない」というのなら、洋服を着ようが、場所を変えようが同じことで、筋が通りませんね。

永田 皇室伝統の祭祀について、じつに便宜的な変更が、陛下や皇族方の意思によらず、側近の事務方によって一方的に行われました。

このほか、同様の理由から、57年8月に、埼玉県大宮市(現さいたま市)の氷川神社例祭の東游(あずまあそび)奉納が変更されました。

同社は武蔵国の一の宮で、明治元(1868)年に明治天皇が行幸になり、親祭され、勅祭社と定められた由緒ある神社です。このため毎年8月1日の例祭には勅使が参向し、楽部の楽師も随行して東游を奉納してきた経緯があります。

けれども公務員が宗教法人としての神社に出向き、東游を奉納するのは好ましくないというので、楽師たちは有給休暇を取り、私人として奉納することになりました。

こうした改変が次から次に起きたのが昭和50年代でした。

──永田さんとしては強い危機感を覚えずにはいられなかった?

永 田 それで私は57年暮れ、母校の國學院大學で開かれた「神道宗教学会」で、これら宮中祭祀改変の是非を問題提起しました。学会のメンバーである神道学者 たちに天皇陛下の祭祀の現実を知ってほしい。陛下のなさるべきことは何か、をもっと社会に知らしめてほしい、と心から願ってのことでした。

私の学会発表はその後、「週刊文春」に大きく取りあげられ、宮内庁に対する社会的批判が高まりました。

──けれども永田さんは逆に、宮内庁内での風当たりが強くなった。

永田 即位礼・大嘗祭に関する掌典職作成の計画案が提出されたあと、平成元年12月17日に私は配置替えになりました。

実施に向けての諸準備は、私の後任である三木(そうぎ)善明掌典補を中心にして、掌典補一丸となり、職務を果たすべく、恒例祭典を奉仕しながら、少し大袈裟に申せば、休日なし、連日徹夜に近い残業の日々で、取り組んでいました。

儀式、衣紋、作法の指導、布設に関わる監督、実行予算案の作成、神饌(しんせん)の調達から調理まで行い、数千に及ぶ物品調達などなど、一から十まですべてに関与し、御大喪以上に言語に絶するたいへんな苦労があったと思います。

大礼後には三木掌典補も掌典職を追われています。


▽6 政府には準備態勢がなかった

──昭和天皇の晩年にもっとも心配されたのは何ですか?

永田 やがて来たるべき御代替わりで、大行天皇の御大喪および新帝の御即位の大礼が、国の予算ではなく、内廷費で賄うことになったら大変だということです。

万一、御代替わりの諸行事が、国事としてではなく、皇室の私事として行われることになれば、国費で支弁することはできませんから、尊皇意識で人後に落ちない神社界をはじめ、国民各層の支援を求めるほかはないとまで思い詰めたものです。

皇室の伝統に従い、明治時代に成文化された皇室祭祀令にのっとって行うには、それなりに多額の予算が必要だからです。事実、皇室は万が一の場合に備えて、けっして十分とはいえない内廷費をやりくりして、一部を毎年、積み立てていました。

──皇位継承について、原理・原則がないことも大きな懸念だった?

永 田 戦前は御大喪から御即位までが、皇室典範、登極令(とうきょくれい)、皇室喪儀令、皇室服喪令、皇室陵墓令などに細かく規定されていました。大正から 昭和への御代替わりでは、大正天皇崩御当日の大正15(1926)年12月25日から2年間にわたって、61回の儀式が行われました。けれども敗戦と日本 国憲法の成立に伴い、皇室典範は改正され、皇室令は廃止されました。

皇室典範は、「第十条 天皇崩ずるときは皇嗣?ち践祚(せんそ) し祖宗の神器を承(う)く」「第十一条 ?位の禮及大嘗祭は京都に於て之を行ふ」(原文は漢字カタカナ混じり)、などと皇位継承に関して具体的に規定して いましたが、現皇室典範には、「第四条 天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」「第二十四条 皇位の継承があつたときは、 即位の礼を行う」「第 二十五条 天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」という抽象的な規定しかありません。

国の象徴であり、国民統合の象徴と憲法に定められ る天皇に関して、もっとも重要な皇位の継承について、現行法規は具体的規定を持たないのです。崩御(ほうぎょ)ののち、予算設定が取られ、組織が作られ、 という手順ではとても間に合わないのに、政府も宮内庁も準備態勢ができていませんでした。

──行政は直近の前例を踏襲する先例主義ですから、ひとたび悪しき先例が作られれば、後々に影響します。

永田 それは許されない、というのが私たち掌典補全員の思いでした。そこで、國學院大學の安蘇谷(あそや)正彦教授(のちの学長)や神社本庁の職員などにも働きかけて、即位・大喪の勉強会を始めました。

掌典補6名のほか、國學院大學からは安蘇谷教授を中心に、田沼眞弓(現・國學院大栃木短大教授)、高森明勅(現・日本文化総合研究所代表)など当時の大学 院生らと毎週1回、神社本庁からは茂木(もてぎ)貞純(現・國大教授)、牟禮(むれい)仁(のちの皇學館大学教授)などの職員と毎月1回、定期的に集ま り、勉強会は58年春から63年秋まで続きました。学問的な裏付けがどうしても必要だったからです。

掌典補の1人、三木善明氏は大正天皇の大喪記録を借りだして、書き写すことに取り組み始めました。

──関係部局で皇位継承について取り組み始めて、とくに困ったことはありましたか?

永田 掌典職員以外の他部局の職員には専門用語が難解で、読解できず、意味が正確に分からないことです。たとえば轜車(じしゃ)とは何か、お車なのか、牛車(ぎっしゃ)なのか、が分かりません。少し理解が進んだかと思うと、人事異動で担当者の顔ぶれが変わりました。

そんなことを数年、くり返し、ヒト、カネ、モノがこんなに必要なのか、と私たちは天を仰ぎました。昭和の御代替わりを踏襲しようとすれば、数十億円もかかります。年間数億円しかない皇室の内廷費ではとても賄えません。

(2に続く)

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

宮中祭祀論の深まりを願う──園部逸夫元最高裁判事の著書を読む

2012/04/16 12:24

 


▽1 祭祀は天皇の「私的行為」

順徳天皇が著された『禁秘抄』(1221年)の冒頭に「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」とあります。宮中のしきたりに通じていた順徳天皇は、承久の変の直前という皇室の危機の時代にあって、祭祀こそが最優先されるべきことを宣言されたのです。

そのように、歴代天皇が天皇第一のお務めと最重要視してこられたのが宮中祭祀ですが、目下、進行中の「女性宮家」創設の議論のなかで、天皇の祭祀はどのようなものとして理解されているのでしょうか?

たとえば、園部逸夫元最高裁判事はどうでしょうか?

園部元判事は、女性天皇のみならず女系継承を容認する報告書をまとめた皇室典範有識者会議で座長代理を務め、いまをときめく「女性宮家」検討担当内閣官房参与の立場にあり、ご自身、女系継承容認論者といわれます。

園部元判事には『皇室制度を考える』(中央公論新社、2007年)という著書があります。園部元判事はこの本のなかで、宮中祭祀について、何度か言及していますが、祭祀は天皇の私事だと解説されています。

第1章「天皇の地位と行為──象徴天皇制度」の第2節「皇室のご活動」には、つぎのような一節があります。

「宮中祭祀をはじめ宗教的性格があると見られることが否定できない行為は、天皇は象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができると解されており(通説。政府見解)、現行制度の解釈としては妥当といえよう」

天皇の祭祀には宗教性が否定できないから、憲法政教分離の原則上、国の機関としての立場では行えないというのが政府の見解である、という解説です。

平成の祭祀簡略化を進言した一人と目される渡邉允前侍従長(現御用掛)が「宮中祭祀は、現行憲法の政教分離の原則に照らせば、陛下の『私的な活動』という ことにならざるを得ません」(雑誌「諸君」20年7月号掲載の渡邉允前侍従長インタビュー「慈愛と祈りの歳月にお伴して」)と語っているのと、共通してい ます。

一見、常識的な憲法解釈ですが、少なくとも5つのポイントが指摘できそうです。


▽2 天皇の祭祀に宗教性が否めない?

第1に、天皇・皇室論を考える観点です。園部元判事の場合は「象徴天皇制度」という視点で、あくまで現行憲法を出発点とした、「はじめに憲法ありき」の憲法論です。

といっても、園部元判事の本には皇室の歴史と伝統に対する観点がまったくない、というわけではありません。たとえば、天皇の祭祀が古代から現代まで、どのように変遷したのか、など解説が試みられています。

けれども、皇室の歴史を重んじ、伝統に学んで、現代的あり方を模索しようという発想は基本的に感じられません。

第2に、天皇の行為に関する憲法論の基準です。

天皇の行為に宗教的性格があることを理由に、天皇の祭祀が天皇の私的行為と解釈されている、と園部元判事は説明していますが、それならば、一方で、宗教的性格が否定できない行為が、天皇の立場で公的に行われている実態があることは、どのように説明されるのでしょうか?

たとえば、天皇は毎年、終戦記念日の全国戦没者追悼式にご臨席になります。同追悼式は「国をあげて戦没者を追悼する」(昭和27年4月8日閣議決定)〈http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib01125.php〉のが目的ですが、国民の死を悼む行為は、明らかに宗教的な性格があります。

ご臨席も同様でしょうが、政府が主催する追悼式に、天皇がご臨席になることは、天皇の私的行為ではなく、公的行為とされています。

戦没者追悼式のご臨席が「象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができる」(園部元判事)と解釈されない根拠は、園部元判 事が解説するような、宗教性があるかどうかという行為の性格ではなくて、特定の宗教色があるかどうかという行為の形式のはずです。

事実、追悼式は「三 本式典には、宗教的儀式を伴わないものとする」(前掲閣議決定)とされ、式典は宗教者が排除され、献花・黙祷という無宗教形式で行われています。

行為の形式ではなく、行為の性格に、宗教性の不在を要求するという園部元判事の憲法解釈は、どこに由来するのでしょうか?

考えてもみてください。国と国民の統合の象徴である天皇の行為から宗教性が排除されなければならない、という憲法解釈は、国および国民の行為が非宗教的であることを要求することになるでしょう。

人間はすべて宗教的存在であり、憲法は明らかに宗教の価値を認めています。であればこそ、戦没者追悼式も行われ、天皇もご臨席になります。


▽3 津地鎮祭訴訟の判断基準と異なる

第3に、憲法政教分離解釈の判断基準です。

園部元判事は、天皇の行為に外形上、宗教性があるかどうかによって、合憲性を判断し、宗教性が否めない行為については、国および国民の象徴としての行為ではなく、天皇の私事扱いとなる、と判断していますが、これは津地鎮祭訴訟最高裁判決以来、司法当局が採用してきた、目的・効果基準とは異なります。

津地鎮祭訴訟では、津市が主催し、神式で行われた市体育館の起工式(地鎮祭)が政教分離原則に反するか否かが争われ、最高裁は昭和52年、宗教との関わり 合いが否定できないものの、目的は世俗的であり、その効果は神道を援助・助長・促進し、他の宗教に圧迫・干渉を加えるものではないから、憲法が禁止する 「宗教的活動」には当たらない、という合憲判断(多数意見)を示しました。

つまり、最高裁は、外形的に宗教的性格があることが直ちに、憲法政教分離原則に抵触する、という判断をしていません。

園部元判事はそのキャリアからすれば、最高裁の判例を知らないはずがありませんが、にもかかわらず、天皇の祭祀に外形的な宗教性が否めないことをもって、 「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」という第20条第3項の「宗教的活動」に当たる、というような判断をする根拠はどこにあるのでしょうか?

園部元判事は、宗教性の有無によって憲法判断するのが通説であり、政府見解だと説明しているのですが、そうだとすると、少なくとも法律家の解釈、行政の判断、最高裁の判決が食い違うということになるでしょう。


▽4 いつ「私事」説に変わったのか

第4に、憲法解釈の変遷です。

つまり、祭祀が「天皇の私的行為」だとする憲法解釈は、歴史的に見て、戦後、一貫してきたわけではありません。

戦前は皇室祭祀令など皇室独自の法令があり、天皇の祭祀の根拠が明文化されていましたが、敗戦後の昭和20年12月、「宗教を国家から分離すること」を目的とする神道指令の発令で、状況は変わりました。東京駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷な指令は、宗教への干渉を禁じる戦時国際法に違反していまし た。

日本政府は皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備をはかるという方 針でした。終戦直後の宮内次官で、戦後初の侍従長ともなった大金益次郎は、「天皇の祭りは天皇個人の私的信仰や否や、という点については深い疑問があった けれども、何分、神道指令はきわめて苛烈なもので、論争の余地がなかった」と国会で答弁したと聞きます。

その後、昭和22年5月に現行 憲法が施行されたことに伴い、皇室令は廃止され、宮中祭祀の明文的な法的根拠は失われます。それでも、「従前の例に準じて事務を処理すること」という宮内府長官官房文書課長名の依命通牒によって、祭祀の伝統は辛うじてながら引き継がれました。

そして、昭和34年に行われた今上天皇(当時は皇太子)の御結婚の儀は、閣議決定によって「国事」とされ、国会議員が参列したことが知られています。

けれども40年代になると、流れが変わります。政教分離の厳格主義が行政全体を席巻するようになったのです。宮内庁では側近の侍従までもが祭祀を敬遠するようになり、昭和50年8月15日の長官室会議で依命通牒は破棄され、「宮内庁関係法規集」から消えました。毎朝御代拝をはじめ祭祀の改変・簡略化が行わ れ、宮内庁職員は「祭祀は私事」説を口々に唱えるようになりました。

けれども、57年暮れに祭祀の簡略化が明るみに出、翌年、神社本庁 は抗議の質問書を宮内庁長官宛に提出し、神道指令下では天皇の祭祀は「私事」として以外、認められなかったが、それでも国家公務員の侍従による毎朝御代拝 は認められた、などと迫ったとき、宮内庁側は、「ことによっては国事、ことによっては公事」とする神社本庁側の主張を認め、祭祀はすべて「天皇の私事」と する解釈を否定しています。

それから30年、園部元判事が説明するように、「祭祀は天皇の私事」説が政府の公的解釈だとするなら、いつ、どのような経緯で解釈変更されたのか、説明されるべきです。


▽5 特定の宗教を援助・助長・促進するのか

第5に、憲法政教分離原則における目的・効果基準の解釈・運用について、です。

天皇の祭祀は、天皇が行うことによって、特定の宗教を援助、助長、促進し、他の宗教に圧迫・干渉を加えるような、「宗教的活動」に該当するのか否か、です。

神に食をささげ、みずから食し、祈りの言葉を唱える天皇の祭祀が、神道的儀礼であることは明らかですが、宗教的教義を広め、信徒を獲得し、教勢を拡大することはまったく想定されていません。皇室は宗教団体ではありません。天皇の祭祀は特定の宗教を援助・助長・促進し、他を圧迫・干渉しようがないのです。

園部元判事の本には、以上の問題点について、説明がありません。

といっても、園部元判事は単純に天皇の祭祀を切り捨てているわけではありません。先の引用文のあとに、以下のような文章が続いています。


▽6 混乱する議論

「ただ、天皇を象徴であると憲法が定める背景には、1つには皇室の長い歴史があり、また1つには国家国民のために祈る存在である天皇が有する精神的権威やありがたみ(宗教的な権威もこの中に含まれると解することも可能)があって、それぞれが重要な位置を占めているという考え方に立てば、こうした宮中祭祀が天皇の象徴性と関係があるということも否定できないと考える」

話は逆でしょう。「関係が否定できない」のではなく、歴代天皇が公正かつ無私なる祭祀を行ってこられたことこそ、天皇が天皇たる所以ではないでしょうか?

園部元判事の祭祀論はかなり混乱しています。第1章第4節の「象徴天皇制度のこれから」では、つぎのように既述されています。

「天皇の象徴たる地位と宮中祭祀との関係をどのように解するかという点については、事柄が専門性を有すること、あるいは事柄が精神的価値に関することであることから、その判断はなかなか難しい。ただ、現在、皇室において宮中祭祀を一切お止めになることは、その象徴性との関連から鑑みるとあり得ないであろう、という観点から考えると、宮中祭祀は皇室における『私』として位置づけられる事柄である、と断言することもいかがなものかと思われる。

この点については、先に述べた公私の議論が参考になる。天皇の行為としての面から見た宮中祭祀の性格は、大嘗祭と同様に『公』としての性格を持つと解する考え方もあるが、他方、特定の方式によることは象徴としての性格に馴染まず、『公』とすることは無理がある、ということになろう」


▽5 なぜ複合儀礼なのか

園部元判事の議論がなぜ混乱するのか、理由は2つでしょう。

1つは、天皇の祭祀とは何か、という本質論が欠けていることです。

たとえば皇室第一の重儀とされてきた新嘗祭は、すでに書いたように、米のみならず、米と粟の新穀を、皇祖神のみならず諸神明に捧げる複合儀礼です。したがって、祭典は皇祖神をまつる賢所ではなく、神嘉殿で行われます。

新嘗祭が天孫降臨神話を根拠とする祖先崇拝であり、米の新穀を皇祖神に捧げるという稲作儀礼であるとすれば、皇祖神をまつる賢所に、稲の新穀を捧げれば十分です。しかし、宮中新嘗祭はそのような神事ではありません。

川出清彦は『祭祀概説』(学生社、昭和53年)で、新嘗祭の神饌について、品目の筆頭に「御飯筥 米粟各二盛」を上げ、「筥(はこ)は葛筥(くずばこ) で、蓋(ふた)がある。蓋の上には、檞(木偏に解。かしわ)の葉を綴ったのを乗せる。いわゆる通い筥で、その中にそれぞれ、飯と粥とを盛った窪椀(くぼ て。窪手、窪晩)を納める。飯は蒸飯(甑[こしき]で蒸したもの)で、米、粟、各二盛あり、そのうちの各一盛は陛下直会の料である」と説明しています。

米と粟が対になっていることが明白です。一方、本来は天皇の神社であり、私幣禁断の社である伊勢神宮では1年365日、徹頭徹尾、稲の祭りが行われています。

天皇の、天皇による祭りである宮中祭祀は、なぜ米と粟の複合儀礼なのか、が深く探究されなければなりません。


▽6 園部判事の参列は国民の宗教に圧迫・干渉したか

第2に、園部元判事が繰り返し追究する、公か私かという議論の目的は、天皇の祭祀が公的行為だとすれば政教分離原則に抵触すると考えるからでしょうが、実際論としては、ちょうど靖国神社首相参拝の「公式参拝・私的参拝」論に似て、不毛であるように思われます。

たとえば政教分離の厳格主義の本場とされるアメリカには、「全国民のための教会」とされるワシントン・ナショナル・カテドラルがあり、大統領の就任のミサなどが行われ、政府高官が参列しますが、政教分離違反という声は聞きません。

「あなたには私のほかに神があってはならない」という教えを信じる一神教世界でさえ、公的な宗教儀礼が認められています。アメリカ憲法は祈りを禁じているのではなく、祈りを強制することを禁じている、と教会関係者は説明しています。

他方、日本のように、さまざまな信仰の共存が古来、認められてきた多神教的世界で、多神教的儀礼を国家の機関たる天皇が行うことについて、かたくなに「私 的行為」だと言い募る必要があるのかどうか、です。逆に、「宗教性が否めない」ことを理由に、「私的行為」と決めつけることは、非宗教を援助・助長・促進 することになり、かえって憲法政教分離原則に抵触するのではないでしょうか?

園部元判事は最高裁判事の立場で天皇の祭祀に参列した経 験があると聞きますが、最高裁判事の参列は私的行為なのか、それとも公的行為なのか。公的行為だとして、実際上、参列者である園部判事自身に対して、あるいは国民に対して、宗教的な圧迫・干渉を加えることになるのでしょうか?

園部判事自身が参列によって、どうしても宗教的圧迫・干渉を受 けるというのなら、参列しなければすむことであり、実際、無神論者を自認したという富田朝彦宮内庁長官はほとんど参列したことがないといわれます。つま り、参列を強制しなければすむのであって、天皇の祭祀の公的性を否定する必要はありません。

一方、天皇が祭祀を行い、政府関係者が参列することが、国民の宗教に干渉し、圧迫することになるのかどうか? むしろ逆に、天皇の祭祀は、宗教的に多様なる国民を多様なるままに統合する機能を果たしてきたのではないでしょうか。


▽7 天皇の祈りこそ信教の自由を保障する

天皇が米と粟を神前に捧げるのは、畑作民の粟と稲作民の米を、国民が信じる神々に捧げ、神人共食の儀礼によって、さまざまな国民と命を共有し、命を蘇らせる意味があるものと思われます。

天皇の祭祀はむしろ、さまざまな国民の暮らしと信仰の自由を保障してきたのでしょう。だとすると、「宗教性が否定できない」という理由で、国家機関としては祭祀を行えず、私的行為としてのみ行える、という園部元判事の解説は本末転倒といわねばなりません。

かつて「公」とは皇室を意味しました。むろん政府的、行政的という意味ではありません。天皇の「公」とは政治権力を超えたところにあります。「天皇に私な し」であり、神代の時代、皇祖神が下された命令に従い、「わが知ろしめす国に飢えたる民が1人あっても申し訳ない」とお思いで、私を捨てて、国と民のため に祈りを捧げてこられたのが歴代の天皇です。

神代にまで遡れると信じられる天皇の歴史に、宗教性は不可分です。天皇の行為から宗教性を剥奪することは、天皇の歴史を否定する革命的発想といえないでしょうか? 


▽8 世俗論的宮中革命を推進する理由は?

目下、進行中の「女性宮家」創設問題も同様です。

園部元判事は「(女性宮家の)子が天皇になるとしたら男系皇統は終わる。女性宮家は将来の女系天皇につながる可能性があるのは明らか」(「週刊朝日」昨年12月30日号)と語っています。

歴史に例のない「女性宮家」はもともと、これまた歴史に例のない女系継承をも容認する皇室典範改正と同時に進められてきました。現行憲法を出発点とする「単なる象徴」天皇論なら、なるほど過去の歴史と伝統を顧みる必要はありません。

歪んだ憲法解釈・運用を優先させる反面、国民のために無私なる祈りを捧げ、多様なる国民を多様なるままに統合するという天皇の祭りの歴史的価値を否定し、「象徴天皇制度」なる世俗論的宮中革命を推し進める理由は、どこにあるのでしょうか?

 

 

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。
http://melma.com/backnumber_170937_5540652/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

20キロ圏の神社が消える?──「文藝春秋」昨年8月号掲載拙文の転載

2012/04/02 06:52

 

 陛下の術後のご容態が芳しくないようです。

3月30日の宮内庁発表によると、同月7日と20日の2度にわたる胸水穿刺にもかかわらず、胸水の貯留がなお認められ、しばらくご静養を延長されるもようです。
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/kohyo/kohyo-h24-0212.html#k0330

メディアの報道では、抜きとれられた胸水は2リットルを超え、少しの散歩でも息が荒くなるご様子、といわれます。

医師団が今回、心臓外科手術を決断した理由・目的は「Quolity of Life」にある、と伝えられますが、現状では、いわゆるご公務やテニスなどのスポーツはまだしも、激務とされる宮中祭祀への復帰はかなり厳しいのではないかと心配されます。

マスコミは、手術後も、大震災追悼式のご臨席など、陛下のご公務が続いていることを指摘していますが、それどころか、昨年11月の御不例以来、祭祀のお出ましはほとんどありません。

御拝が恒例となっていた、2月11日の建国記念の日に検査入院が行われ、2月17日の祈年祭の日に手術のためのご入院となり、3月20日の春季皇霊祭・神殿祭に時刻に胸水穿刺の御治療が行われ、それでいて、翌日に国賓のご会見が設定されるという具合です。

ご健康上、やむを得ず、御代拝にせざるを得ないとしても、御所でお慎みになる機会さえ設定されないのは、歴代天皇が第一のお務めとして最重要視した祭祀がいかに軽んじられているか、ということでしょう。

「皇太子同妃両殿下の時代から、祭祀を大切にしてこられた」(宮内庁HP)という陛下であれば、どれほどおつらいことでしょうか。

さて、今日は、「文藝春秋」昨年8月号に掲載された拙文「20キロ圏の神社が消える」を転載します。

被災地の復興が遅々として進まないなか、郷土の精神史のシンボルである神社はますます困難な状況に置かれています。

なお、若干の加筆・補正が加えられています。

 

1、「氏子を守る」と津波に呑み込まれた宮司

福島第一原発から北方約七キロの海浜に、双葉郡浪江町請戸(うけど)地区という古い漁村がありました。大津波で、全世帯403戸がほぼ壊滅したといわれます。

真っ青な太平洋に臨む、広い浜辺には、荒波を鎮め、豊漁をもたらす神として、少なくとも千数百年の昔から漁民たちの崇敬を集めてきた苕野(くさの)神社が ありました。毎年2月下旬に行われる安波(あんば)祭は、下帯姿の若者たちに担がれた樽御輿が冷たい冬の海に入り、大暴れする勇壮さで知られました。

宮司は57代目、昭和13(1938)年生まれの鈴木澄夫さんですが、悲しいことに、巨大地震発生および大津波の襲来以来、行方が知れません。

江戸時代から続く、ナマコ壁の酒蔵が跡形もなく倒壊するほどの烈震で、宮司宅の屋根瓦はすべて落ち、狭い道路をふさぎました。「津波が来る。早く逃げよ う」。総代たちが必死に避難を誘いましたが、昔気質の鈴木宮司は頑として応じません。「氏子が一人でも残っているうちは、逃げるわけにはいかない。氏子を 守るのが神職の務めだ」。道路が大渋滞し、混乱をきわめるなか、情け容赦なく襲ってきた大津波に、宮司も照美夫人も呑み込まれたといいます。

それから数カ月、大阪に嫁いだ3女の倉坪郁美さんは「歴史ある神社をぜひとも復興したい」と語ります。しかし、延喜式神名帳に記載されるほど由緒正しい村の鎮守の再興には、幾重もの壁が立ちはだかっています。


2、テレビは映らず、電話は通じず

福島県内3040社の神社を包括する福島県神社庁のトップ・足立正之庁長は大地震発生のその日、宮司を務める霊山(りょうぜん)神社(伊達市霊山町)の社務所で、夫人や娘さんと、翌日に予定されていた崇敬者夫人の五十日祭の準備に追われていました。

ようやく準備が整った矢先、突然、震度6弱の激しく長い揺れが襲いました。舗設し終えたばかりの祭壇や神饌(しんせん)があたり一面に散乱し、壁が落ちました。外に出ると、灯籠が倒れ、境内に地割れが走っていました。

同じころ、福島市の中心街に位置する福島稲荷神社の宮司でもある丹治正博副庁長は、社務所内で、書類という書類が飛び散る、猛烈な揺れを体験していまし た。窓の外では本殿が右に左にしなっています。「宮司さん、(末社の)鳥居が倒れました。灯籠が倒れました」。若い職員の悲痛な叫びです。

揺れが収まると、ビル街からビジネスマンたちが、寒さに震えつつ避難してきました。「大鳥居には近付かないでください」。余震が心配でした。緊急自動車が 何台も、けたたましいサイレンを鳴らし、走り去っていきます。私立大学の校舎が倒壊したのです。やがて夜の帳が下りました。市内は真っ暗。神社の一角だけ は停電を免れました。津波が沿岸部を無慈悲に襲う映像をテレビが映し出します。丹治宮司は息を呑みました。


3、30社以上が流失もしくは全壊

3月18日、足立庁長は大地震後はじめて、県神社庁に登庁します。相変わらず電話は通じず、丹治副庁長とは携帯メールで辛うじて連絡がとれる程度でした。情報が閉ざされた状況のなかで、被害の概要が分かってきたのは、じつに大地震発生から半月後でした。

丹治副庁長によると、福島県内3040社のうち、約1800社が何らかの被害を受けました。鳥居、狛狗(こまいぬ)、灯籠など境内の工作物や祭器具、事務機器などの損壊は、全県下で確認されたといいます。

「会津地区」と「中通り地区」では、主要建物の一部損壊が広範囲にわたって発生したものの、全壊は報告されていません。とくに被害が集中するのは「浜通り地 区」、相馬・双葉・いわきの三支部で、福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域内の約200社については、原発事故によって立ち入り調査ができず、被 災の実態すら分かりません。しかし、少なくとも30社以上が流失、もしくは全壊したと考えられています。

足立庁長は「双葉支部管内は全域が壊滅し、支部それ自体が消滅した」と天を仰ぎます。

生活の困難は被災者も神職も同様で、福島県内約600人の神職のうち、避難生活を余儀なくされているのは1割にあたる60人。神社が失われ、祭器具も流失 し、装束(しょうぞく)すら持ち出せず、着の身着のままで避難した神職は、神明奉仕の術(すべ)を喪失しただけでなく、衣食住すべてを失って、生活困難に 陥っています。

なかでも、公務員や教員などの職を持たず、神明奉仕のみに徹してきた、若い専業神職たちは、生活の糧(かて)を完全に絶たれて、悲惨な状況に置かれています。

いわき市の北東端、久之浜(ひさのはま)は地震、津波に加え、火災による被害を受け、町の中心はほぼ壊滅、多くの犠牲者を出しました。町の氏神・諏訪神社 の高木優美(まさはる)禰宜(ねぎ)は昭和60年生まれ。諏訪神社は被害を免れたものの、兼務社数社は流出もしくは半壊。しかも、本務の市内神社から解雇 され、無収入状態に陥りました。それでも「神社を復興したい」と若いエネルギーを燃やし、わが身を省みずに、支援物資輸送、瓦礫撤去などの支援活動に東奔 西走し、郷土再生プロジェクトの中心を担っています。


4、被災地のために一日も早い神社再興を

3月25日、県神社庁は被災神社復興のために災害対策本部を正式に設立しました。足立庁長らはこの時点では、神社の復旧・復興が当然、行われるべきだし、可能だ、と考えていました。原発事故の深刻さ、長期化についての理解が十分ではなかったからです。

足立庁長と丹治副庁長は二人でくり返し話し合ったといいます。「震災復興は往々にして目に見える建物や町の復興がすなわち復興だと考えられている。けれど も、再建されなければならないのは、戦後の日本人が失った大切なもの、精神的存在としての人間の生き方である。大震災をひとつの契機として、人間の心の面 に主眼を置いた復興を考えなければならない」

丹治副庁長には苦い思い出がありました。16年前の阪神・淡路大震災で、若い神職たちが全 国から神社復興支援のため集まりました。ところが、ある文化人から予想外の強い批判を浴びました。「自分たちの神社の復旧ばかりで、被災者のために何もし ていない」。一般誌に何度も掲載された酷評に、まだ若かった丹治副庁長は強く反発したものの、反論の術はありませんでした。

全国に約8 万社ある神社は、それぞれの土地に固有の、多様な信仰を伝えています。現代の宗教法人法上によれば、代表者は神職たる宮司ですが、村の鎮守といわれるよう に、歴史的に見れば、氏子たちによる地縁共同体の精神的拠点です。教えを広めることを第一義と考える仏教やキリスト教なら、布教活動の一環として被災者へ の支援活動も大いにあり得るでしょうが、神道はそうではないのです。地域の心の支えであり続けてきた神社を復興させ、伝統の祭りを一日でも早く復活させる ことが被災者と被災地のためであり、自分たちの使命だ、と丹治副庁長は強く思うのでした。


5、自然への畏れを忘れた民族は滅びる

4月に入ると、福島県神社庁は特別メッセージ「東日本大震災に寄せて」と、足立庁長による激烈な長文のエッセイ「東日本大震災による福島県の諸状況」を立て続けに発表します。県神社庁が独自に、対外的な情報発信をするのはきわめてまれでした。

特別メッセージは「自然への畏れを忘れた民族は滅亡する。畏れこそが神様への祈りの原点である。神様に祈ることで人間はふたたび大いなる力を得、幾多の困 難を克服してきた」と、祈りの大切さを冒頭で訴え、天皇の祈りと全国津々浦々の神社での神祭りの意義を確認するものでした。


6、神社庁長の異例な政府批判

足立庁長のアピールには、原発事故と避難政策によって、父祖伝来の郷土が失われ、住民の心の支えである神社が消滅することへの強い危機感が表明され、とりわけ政府の無策ぶりを厳しく非難する、きわめて異例のものでした。

足立庁長が口を極めて政府を批判する一番大きな理由は、「自分たちはこのまま故郷を追われた放浪の民となってしまうのか」という、県民すなわち氏子崇敬者の苦悩が身につまされるからでしょう。

「大地震、大津波、原発事故の三重苦で、瓦礫の片付けどころか、遺体の収容や行方不明者の捜索すら許されず、復旧への足掛かりを得ることすらできない。原発事 故は終息の見通しが立たず、生活再建などとうてい考えられない。不安と焦躁ばかりが募り、心身の休まらない苦悩の日々が続く」(前掲エッセイ)

ところが、政府はあろうことか、県民の心のよりどころさえ奪おうとしているのでした。

3月25日に政府は、被災者生活支援特別対策本部長・環境大臣より、「東北地方太平洋沖地震における損壊家屋等の撤去等に関する指針について」という通達を、被災した福島・青森・岩手・宮城・茨城・栃木・千葉の7県知事に発しました。

原形をとどめていない住宅ほか、用をなさない建造物や車両・船舶などについて、たとえ所有者が不在であっても、所有者の意思が確認できなくても、県や市町 村の判断で処分してもよい。そのために当該の土地に立ち入ってもよい。霊璽(位牌)やアルバムなど、所有者個人にとって価値のあると認められるものについ ては、作業の過程で発見され、容易に回収することができる場合は一律に廃棄しない、という内容でした。

足立庁長は、この通達が引き起こすことの重大性を、声を大にして訴えます。祖先たちが大切に守ってきた郷土の聖地が失われかねないからです。

「かりに福島第一原発から半径30キロ圏内が国有地化され、強制集団移住の事態となれば、この圏内に鎮座する神社は消滅することとなる。避難先に神社の仮境内地を確保されることはおよそ考えられない」(同前)

つまり、この通達が実施されると神社存続の危機につながるのでは、と危惧するのです。

神社の信仰は多くの場合、土地と結びついています。それぞれの土地に、土地をつかさどる神がおられる。軽々しく神様の引っ越しをすることはできないのです。

現行の宗教法人法は、儀式行事を行うことを目的のひとつとし、礼拝の施設を備えていることを宗教法人としての要件としていますが、地震と津波で礼拝施設を 完全に破壊され、儀式を斎行するための施設や祭器具などを完全に喪失しただけでなく、原発事故によって境内への立ち入りさえ困難になった被災神社につい て、「宗教法人格の保有を、はたして国は今後も認めてくれるのか」と足立庁長は案じています。

宗教法人法第81条は、1年以上、宗教活 動が行われない、礼拝施設の滅失したあと、特別の理由がないのに、2年以上、施設を備えない。1年以上、代表役員・代務者を欠いている、などの場合、裁判 所は解散を命ずることができると規定されていますから、とくに20キロ圏内の被災神社は宗教法人格を失いかねません。毎年、作成しなければならない財産目 録および収支計算書すら、いまは揃えられないのですから。

なかでも急を要する課題は、もっとも神聖に取り扱われるべき神社の御霊代(み たましろ。御神体)についてです。個人の思い出としての位牌やアルバムは廃棄しないけれども、郷土の精神史のシンボルである神社の御霊代は瓦礫として扱っ ていいというのは、完全に矛盾しています。


7、いまも復興できない淡路島の神社

足立庁長が政教分離問題に言及するのは、神社界が経験した過去の苦い経験に基づく、それ相当の理由があります。

淡路島の北部・淡路市(津名郡一宮町)に鎮座する伊弉諾(いざなぎ)神宮の本名孝至宮司によると、平成7年1月の阪神・淡路大震災で、兵庫県神社庁津名郡 支部内の神社189社のうち3分の1が被災し、とくに20社が深刻な被害を受け、被害総額は数十億円に上りました。しかし震災から16年経ったいまでも、 「復興できない神社が支部内に4、5社ある。社殿は仮設のプレハブのままで、祭りは神事のみ細々と行われている」と嘆きます。

「当時、伊勢神宮の遷宮によるトラック3台分もの古材が下賜され、全国から多額の義援金も提供された。しかし神社復興のリーダーがいないとか、氏子同士が遠慮し合う場合、神社再建は難しい」

本名宮司が指摘するのは、それだけではありません。「神社への偏見がある」といいます。

平成8年夏、兵庫県は文化財と歴史的建造物の復旧に対して、「復興基金」による最高500万円の補助を決め、8月に申請を受け付けました。ところが県神社庁にも知らされず、神社は半年間ものあいだ、蚊帳の外に置かれていたのです。

神社関係者が県や町に照会して、行政の担当者があわてて説明に来るという始末で、その後、12月の二次申請に向けた作業に急いで着手するという事態になり、震災直後から支部長の職に就いた本名宮司(当時は禰宜)は「はなはだ遺憾」と唇を噛みました。

たしかに現行憲法は「国はいかなる宗教的活動もしてはならない」(20条)、「公金は、宗教上の組織の使用、便益もしくは維持のために支出してはならない」(89条)と定めていますが、実際には緩やかな分離政策が採られています。

たとえば、関東大震災と東京大空襲の犠牲者を悼む東京都慰霊堂は、公有地にあり、年2回の慰霊法要が都内の5つの寺の持ち回りで行われています。長崎の二 十六聖人記念碑は長崎市の市有地に立地していますし、小泉内閣以降には首相官邸で「イフタール」というイスラムの断食明けの食事会が行われました。

しかし、宮中祭祀や神社となると、政教分離の厳格主義が頭をもたげてくるのです。

同様のことは平成16年の新潟県中越地震でも起きました。長岡市の蒼柴(あおし)神社の境内にある約80基の灯籠が地震で倒壊したままの惨状をしばらくさらしていました。

2年前の地元紙の報道によると、市民から「長岡のシンボルを復活させて」という声が上がっているのにもかかわらず、復興できずにいるのは、不況で住民らの 寄付が集まらないことのほかに、文化財に指定されていないために県の基金が活用できないからだと記事は伝えています。新聞記者の取材に、市は「政教分離の 観点から神社への助成はできない」と語っています。

けれども文化財に指定されていない宗教施設が、公金によって速やかに復興されるようになった事例がないわけではありません。

たとえば、長崎・新上五島町の江袋(えぶくろ)カトリック教会です。明治に建てられた長崎県内最古の木造教会でしたが、惜しくも4年前に火災で焼失し、わずかに一部の柱や壁が残るだけとなりました。

文化財に指定されていなかったことから復興が危ぶまれましたが、約2カ月後、町は全焼した教会を文化財に指定し、信徒の信仰のよりどころである教会再建に弾みがつきました。


8、氏子が一人でも残るなら

被災神社の存続について、福島県神社庁は「氏子がひとりでも避難せずに残っているあいだは、厳として御鎮座あるべきだ」との指針を示していますが、足立庁 長らは「氏子・住民の強制的な避難が国策的に展開されるなら、神社存立に非常に難しい判断を迫られる」と不安を募らせます。

「30キロ圏内の国有地化、住民の強制集団移住ともなれば、氏子は離散を余儀なくされる。古代からの歴史ある氏子区域は消滅し、氏子共同体の意識も失われる。神社の再建はまったく不可能となり、住民たちの士気も消沈してしまうのではないか」(足立庁長)

大震災発生から4カ月を超えたいま、希望の光が見えないわけではありません。

南相馬市鹿島区(旧相馬郡鹿島町)・御刀(みと)神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)東征のときに勧請されたと伝えられる古社ですが、津波のため社殿 がすべて流出しました。けれども、若い神職たちの協力で境内の清掃が行われ、全国的な協力のもと、仮社殿の建設も進められました。森幸彦禰宜は「地域が忘 れられてはならない。忘れさせられてはならない」と、ツイッターで被災地のいまを発信し続けています。

足立庁長は被災地の神社復興の困難を百も承知で、「福島県民は、かならず再起する」と言い切ります。

 

 

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5528827/

 

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

混迷する「女性宮家」創設論議の一因──古代律令制の規定を読み違えている?

2012/03/18 20:03

 


今日も、「女性宮家」創設問題について書きたいと思います。

今日、メディアなどで一般に語られている「女性宮家」は、歴史上、存在しません。

前回、書いたように、国会図書館のデータベースで検索すると、10年前の平成14年までしか遡れない、というのが何よりの証拠です。女性天皇・女系継承容認に向けて、天皇・皇族方によってではなくて、官僚たちによって、創作された概念です。

けれども、たいへん興味深いことに、歴史上、存在したかのように力説する研究者もいます。むろん、どうしても女系継承を容認し、女性宮家を立てる必要があるのなら、そうせざるを得ないのですが、議論は冷静に、謙虚に、客観的事実を踏まえて、行われるべきではないでしょうか?


▽1 宮家を立て、宮家を継承するのは皇族男子のみ

以前、書きましたように、宮内庁書陵部が編纂した『皇室制度史料 皇族4』(昭和61年)によれば、「宮家」の制度は鎌倉時代以降に生まれます。

古来、特定の皇族個人に対して「○○宮」と呼ぶことは行われていましたが、「鎌倉時代以降、殿邸・所領の伝領とともに、家号としての宮号が生まれ、やがて代々、親王宣下を蒙って宮家を世襲する、いわゆる世襲親王家が成立した」のだそうです。

そして、「室町時代に成立を見た伏見宮をはじめ、戦国時代末から江戸時代に創設された桂宮・有栖川宮・閑院宮の4宮家は四親王家と称さ」れ、この「四親王家はいずれも皇統の備えとしての役割を担い」ました。

したがって、宮家を立て、あるいは宮家を継承するのは、皇族男子に限られます。けれども、そのような歴史の事実が軽視されているように思えてなりません。

前回、お話ししたように、平成8年、鎌倉節宮内長官時代に皇室典範改正、女系継承容認に向けた作業が開始されたことが知られています。

翌9〜12年には内閣官房の協力により、工藤敦夫・元内閣法制局長官を中心に研究会、懇話会が設けられ、第1期は皇室制度、第2期は皇室法についての研究に取り組み、12〜15年には資料の整理が行われ、長官、次長に随時報告されたといわれます。


▽2 議論の出発点は現行憲法

森暢平元毎日新聞記者の雑誌記事(「女性天皇容認!内閣法制局が極秘に進める。これが「皇室典範」改正草案──女帝を認め、女性宮家をつくるための検討作業」=「文藝春秋」2002年3月号)によると、内閣法制局が進める極秘プロジェクトの基本方針は、(1)女性天皇容認と(2)女性宮家創設容認の2つでした。

象徴天皇制を安定的に継続させるには、女性天皇・女系継承を認める必要がある。したがって、女性皇族にも皇位継承権が認められ、結婚しても皇室に残る。そのため女性宮家が必然的に認められる、という論理です。

天皇は、主権の存する国民の総意に基づいて、国と国民統合の象徴という地位にあり、内閣総理大臣や最高裁長官の任命、系法改正や法律、政令などの公布、国会の召集など、国事行為のみを行う国家機関であるとするなら、その機関の安定性が確保されるためには、男子でも、女子でもかまわないということになります。

現行憲法を議論の出発点とするから、女性天皇のみならず、過去の歴史にない女系継承は容認されるべきであり、したがって、過去の例のない女性宮家も認められるべきであるという論理の展開になります。

17年1月から有識者会議による公式検討が始まり、そこでは「伝統」の尊重が基本的視点の1つに置かれましたが、それはあくまで戦後60年の象徴天皇制度の伝統というべきでした。

報告書の「はじめに」に、(1)さまざまな天皇観があるから、さまざまな観点で検討した。(2)世論の動向に合わせて検討した、という2つのことが説明されていますが、もっとも肝心な、皇室自身の天皇観、皇室にとっての継承制度という視点、もっといえば、天皇は祭り主であるという観点が完全に抜け落ちていました。

当メルマガが何度も指摘してきたように、天皇は祭祀王であればこそ、男系によって皇位は継承されてきた、その歴史の重大事が注目されることはありませんでした。

そして実際、有識者会議が皇室の意見に耳を傾けることはなかったのです。


▽3 歴史上、あったかのような議論

過去の歴史にない女系継承を認め、そのための女性宮家の創設なのですから、女性宮家なるものが歴史上、あるはずもないのですが、研究者のなかには「過去にあった」かのように解説する人もいます。

女性宮家の創設を、論壇で、いち早く提案したのは、所功京都産業大学教授でした。「Voice」2004年8月号掲載の「“皇室の危機”打開のために──女性宮家の創立と帝王学」は、皇位継承資格者の男子皇族がきわめて少ないという「はなはだ深刻な事態」を解決する打開策について、次のように述べています。

「管見を申せば、私もかねてより女帝容認論を唱えてきた。けれども、それは万やむを得ない事態に備えての一策である。それよりも先に考えるべきことは、過去千数百年以上の伝統を持つ皇位継承の原則を可能なかぎり維持する方策であろう。それには、まず『皇室典範』第12条(斎藤吉久注。皇族女子が一般男子と婚姻した場合、皇族身分を離れるという規定)を改めて、女性宮家の創立を可能にする必要がある」

女性宮家の創立によって、「皇族の実数を可能なかぎり増やしてゆくこと」ができるというのですが、歴史と伝統を重視する皇室をテーマとする研究者がなぜ歴史にないことを容認しようとするのか、私にはよく分かりません。政府の極秘プロジェクト・チームとは異なり、女帝容認と女性宮家創立とを別のこととして理解されている点も注目されます。


▽4 「女性宮家」が消えた有識者会議報告書

この年の暮れに、安定的な皇位継承について検討する皇室典範有識者会議が発足しました。森元記者によれば、政府の非公式な検討では女性天皇・女系継承容認と女性宮家創設論は一体であり、有識者会議に招かれた所教授は皇族の減少を食い止めるための女性宮家創立を提案しました。

しかし同年7月の会合で中間報告としての論点整理をまとめましたが、そこには「女性宮家の創立」は盛り込まれませんでした。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai10/10gijisidai.html

11月にまとめられた報告書は、「安定的で望ましい皇位継承のための方策」として、「皇位継承資格を女子に拡大した場合、皇族女子は、婚姻後も皇室にとどまり、その配偶者も皇族の身分を有することとする必要がある」と述べていますが、「女性宮家」という表現は用いていません。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html#1

その後、悠仁親王殿下の御誕生で皇室典範改正案の国会提出は見送られ、少なくとも表向きは、議論は下火になりましたが、昨年11月になって、皇室のご活動の確保を目的とする女性宮家創設論が浮上してきました。

渡邉允前侍従長は皇位継承問題とは「別の次元の問題」と釘を刺しましたが、またぞろ男系派と女系派との熱い論戦が再燃しています。


▽5 律令は「女帝」の存在を公式に認めていた?

そんななかで、所教授の女性宮家創立論が際立っているのは、女性宮家が過去の歴史にあったかのように解説していることです。

所教授は、有識者会議では、8世紀に完成した「大宝令(たいほうりょう)」や、これに続く「養老令(ようろうりょう)」に、皇族の身分や継承法を定めた「継嗣令(けいしりょう)」という規定があることに注目します。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html

冒頭の一条は、「凡そ皇(こう)の兄弟、皇子をば、皆親王(しんのう)と為(せ)よ。〈女帝(にょたい)の子も亦(また)同じ〉。以外は並に諸王と為よ。親王より五世は、王の名得たりと雖(いえど)も、皇親の限に在らず」(『律令』日本思想大系3、井上光貞ら、岩波書店、1976年)とあります。〈〉の部分は原注です。

この「女帝の子も亦同じ」について、所教授は、「天皇たり得るのは、男性を通常の本則としながらも、非常の補則として『女帝』の存在を容認していたということであります」「これは、母系血縁あるいは母性というものを尊重する日本古来の風土から生まれた、既に6世紀末の推古天皇に始まる『女帝』を、当時の最高法規である律令が公的に正当化したものとして重要な意味を持つものだと思うわけであります」と述べています。

以上は女帝容認論の歴史的根拠としての指摘ですが、それから7年後の今年、執筆された「宮家世襲の実情と『女性宮家』の要件」(「正論」今年3月号)で、所教授は、「継嗣令」以後の皇室の制度史を概観し、「宮家も男系の男子で世襲されてきたが、正室の嫡子だけでなく側室の庶子が認められていても、それは必ずしも容易ではない。そのため、実子が無ければ、皇族の間から養子を取って継嗣とした」と述べ、「幕末に皇女を迎えて当主とした」という桂宮家の例をあげています。

古代律令制は女性天皇の存在を制度的に認め、幕末期には宮家の当主となった女性皇族もおられる、という歴史理解は、今日の女性宮家創立論を後押ししています。


▽6 まったく異なる読みと解釈

ところが、宣命研究を趣味とする畏友・佐藤鶏鳴氏の研究では、この解釈には無理があると指摘されています。

根拠の第一は、「養老令」それ自体にあります。

「継嗣令」は「令」の巻第五に定めがありますが、巻第七に「公式令(くうじきりょう)」という、公文書の様式などを定めて諸規定があり、「皇祖」「先帝」「天子」「天皇」などの文字が文章中に使用される場合は、行を改め、行頭に書いて、敬意を表すこと(平出[ひょうしゅつ])や、「大社」「陵号」「乗輿」「詔書」「勅旨」などの場合は、一字分を空けて敬意を表すこと(闕字[けつじ])が説明されています。

けれども、いずれの場合も「女帝」は登場しません。所教授だけでなく、岩波の日本思想大系も同様ですが、「継嗣令」の原注を「女帝の子」と読むことに無理があるのではないか、と佐藤氏は指摘します。

同様の疑問は古代史の専門家にもあるようです。

「養老令」施行から2年後の天平宝字3(759)年6月に、光明皇太后が淳仁天皇にお言葉を発せられたことが『続日本紀』に既述され、「是(ここ)を以(もち)て先考(ちちみこ)を追ひて皇(すめら)とし、親母(はは)を大夫人(おおみおや)とし、兄弟姉妹(あにおとあねいも)を親王(みこ)とせよ」とあり、この最後のくだりについては、「継嗣令」との関連が想起されるのですが、『続日本紀3』(新日本古典文学大系14、青木和夫ら校注、岩波書店、1992年)では、所教授や日本思想大系とは別の理解がされているのです。

すなわち、新日本古典文学大系の校注には、「継嗣令」の「凡皇兄弟皇子、皆為親王〈女帝子亦同〉」が引用され、「舎人親王を天皇とするので、その子女(淳仁の兄弟姉妹)も親王・内親王と称させる」と記されています。

つまり、〈女帝子亦同〉は「女帝の子も亦同じ」と読み、解釈するのではなくて、「女(ひめみこ)も帝の子、また同じ」と読み、天皇の子女は親王・内親王とすると解釈しているのです。


▽7 笹山名誉教授は沈黙し、園部元判事は女系継承を容認す

たいへん興味深いことに、新日本古典文学大系の校注者の1人が、女性天皇・女系継承を容認する皇室典範有識者会議で、ほとんど唯一の皇室史の専門家として、委員を務めた、笹山晴生東大名誉教授(日本古代史)でしたが、笹山先生が女系継承容認論者の論拠を批判したとは聞きません。

一方、有識者会議で座長代理を務め、今年1月来、女性宮家検討担当内閣官房参与の立場にある園部逸夫元最高裁判事は、著書の『皇室制度を考える』(中央公論新社、2007年)で女性天皇・女系継承容認論を展開し、次のように「継嗣令」に言及しています。

「養老令の継嗣令第一条は、女性天皇の子についても男性天皇と同様、親王とする旨の定めがされていた。この時代、一定の身分以上の皇親女子の配偶者は皇親男子に限られていたので、女性天皇に子があるような場合でも、その子は皇統に属する男系の子でもあることになるが、当該子の身分については、天皇が女性の場合は女性天皇を基準に定められ、その意味では女系の考えにより定められる制度となっていた」

引用の前半は「継嗣令」の読み違いが明らかで、それゆえ、後半はまったく意味不明の文章が続いています。

これでは女性宮家創設の議論が迷走するのは目に見えています。

それどころではありません。まったく驚いたことに、女系継承容認に抵抗する男系派も同様に、「継嗣令」を解釈しているのです。


▽8 女系継承否認派もなんら変わらない

皇室典範問題研究会による「皇位の安定的継承をはかるための立法案」(「正論」今年3月号)は、「なぜ皇位継承は男系男子に限らなければならないか」「憲法第2条の『世襲』とは男系・女系いずれをも含むのではないか」など、皇室典範改正に関する想定問題集を計21問、掲載していますが、「問8」は次のようになっています。

「問8〈養老継嗣令においても「女帝の子は親王となす」とあり、女系天皇をみとめていたのではないか〉

答 養老継嗣令第1条は親王宣下の資格(皇族の範囲)を規定したもので、皇位継承とは直接関係がない。「女帝子亦同」の一句はその注意書と考えられる(本則に対する例外)。

女帝の配偶者はおられないから、女帝が皇后または皇太子妃になられる以前の皇子のことを指すものと考えられる(皇后、皇太子妃時代の皇子は本則により親王となられる)」

「女帝子亦同」を「女帝の子、また同じ」と読み、解釈することにおいては、女系継承容認派となんら変わらないのです。


▽9 宮家の当主となった唯一の内親王

最後に、蛇足ながら、所教授が言及する桂宮家の歴史について、考えてみたいと思います。所教授は、「皇女を迎えて当主とした例」として、あたかも女性宮家の前例であるかのように紹介していますが、そのような理解は可能なのでしょうか?

所教授によれば、桂宮家は波乱の歴史をたどっています。しばしば後嗣に恵まれなかったからです。3、4、5、6代と皇子を養子に迎えて、宮家を継いでいます。

そして8代目が薨去したあと、20年以上、空主の時代を迎えます。先例にならって、生まれて間もない、光格天皇の皇子を迎え、第9代となりますが、ほどなくして亡くなり、ふたたび空主となります。

24年後、今度は仁孝天皇の皇子が迎えられ、第10代となりますが、やはり2歳半弱で夭折し、三度、空主となります。

26年後、文久2(1862)年、迎えられたのが仁孝天皇の皇女淑子(すみこ)内親王でした。御歳34歳。所教授は「史上初めての皇女を当主とする宮家」がここに成立したと説明しますが、未婚を貫かれ、20年後、この世を去り、同宮家は幕を閉じます。

女性宮家創設の前例となりうるかどうかは、精査の必要があります。

 

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5518825/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(6)

 

「女性宮家」創設の本当の提案理由──政府関係者はきちんと説明すべきだ

2012/03/11 22:14

 


今日は鎮魂の日です。

陛下は、皇后陛下とともに、東日本大震災1周年追悼式にお出ましになり、犠牲者に黙祷を捧げ、「この大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切」とお言葉を述べられました。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h24e.html#D0311

陛下は3週間前に心臓外科手術を受けられ、1週間前に退院さればかり。その後も御所で療養中だが、ご臨席を強く希望され、時間を限られてのお出ましとなりました。

思えば、昭和天皇が晩年、最後までこだわられたのが終戦記念日の全国戦没者追悼式のお出ましと新嘗祭の親祭でした。

天皇の祭りは神人共食の食儀礼です。神と民と命を共有し、その命を蘇らせる。古来、国民の命をわが命とし、祭りの霊力で国と民を統合してこられた天皇であればこそ、でしょう。

けれども、両陛下とも祭祀の簡略化に苦悩されています。今上陛下は大震災追悼式にお出ましになりましたが、歴代天皇が第一のお務めとした祭祀は今後、どのようになるのでしょうか。 


▽1 「皇位継承問題とは別の次元」と強調する前侍従長

さて、今回も、いわゆる女性宮家創設問題について、考えます。

まず、これまでの考察を簡単に振り返ります。

私の第一の疑問は、議論の中味に統一性がない、概念が明確でない、ということです。皇位継承問題として議論としている論者も多いのですが、宮内庁関係者はそういう議論ではないと否定しています。

これではまともな議論は不可能です。いったい誰が、いつ、何の目的で「女性宮家」創設を言い出したのか、はっきりさせる必要があります。

今回の議論のきっかけは、衆目の一致するところでは、昨年11月、「宮内庁が、皇族女子による『女性宮家』創設の検討を『火急の案件』として野田首相に要請したことが分かった」と伝える読売新聞の「スクープ」です。

しかし、当代随一の皇室ジャーナリスト、岩井克己朝日新聞記者によると、羽毛田信吾宮内庁長官は「女性宮家創設を提案したと報じられた」ことについて、「長官は強く否定している」のでした。

岩井記者によれば、羽毛田信吾宮内庁長官は歴代首相に対して、所管事項を説明する際、女性皇族の皇籍離脱と宮家消失の恐れについて「危機感を訴えてきた」のであり、女性宮家創設を主張しているのではありません。

女性宮家創設の提案は羽毛田長官ではなくて、渡邉允前侍従長なのでした。岩井記者によると、女性宮家創設案は前侍従長が数年前から「私案」としてたびたび公言し、「週刊朝日」誌上の対談でも表明してきたと指摘しています。

しかし、「週刊朝日」の対談記事には、「女性宮家」という表現はありません。前侍従長が述べているのは、(1)皇室のご活動が十分に確保されるように、皇族女子が婚姻後も皇族にとどまり、(2)悠仁親王の時代を支えること、(3)皇位継承問題とは別の当面の措置であること、(4)陛下がおっしゃる将来の問題とは皇室のご活動に関する問題と理解されること、の4点です。

渡邉前侍従長が「女性宮家」と明確に表現したのは、昨年暮れに出された『天皇家の執事』文庫版の「文庫版のための後書き」です。「たとえば、内親王さまが結婚されても、新しい宮家を立てて皇室に残られることが可能になるように、皇室典範の手直しをする必要があると思います」と書かれています。

(1)現行の制度のままでは皇族の数が激減する。(2)皇室のご活動が不十分になり、(3)皇室が国民からかけ離れたものとなる恐れがあるから、(4)女性皇族が結婚されても、皇室に残れるようにする必要がある。そのための「女性宮家」創設だというわけです。

羽毛田長官は「何年もの間、陛下は皇統の問題などを憂慮されている」という理解で、そのため女性天皇・女系継承容認論に執念を燃やしていますが、渡邉前侍従長はこれとはまったく異なり、皇位継承問題とは「別の次元の問題」と繰り返し強調しています。

忘れないうちにもう1点だけ指摘しておきますが、「皇室のご活動」を確保するという目的なら、女性皇族が結婚後も皇室にとどまる必要も、新宮家を創設する必要もありません。実際に、臣籍降下した元皇族が社会的活動をなさっている例は少なくないし、寛仁殿下は三笠宮家の一員のままご公務をお務めです。


▽2 最初の提案者であることを否定する研究者

ところが、いまや現実の「女性宮家」論議は、皇位継承問題に終始し、男系派と女系派の熱い議論がふたたび始まっています。

というのも、皇位継承問題としての「女性宮家」創設を訴える識者がいるからです。所功京都産業大学教授の議論です。

朝日新聞のデータベースで、「女性宮家」をキーワードに検索すると、もっとも古い記事は「週刊朝日」2004(平成16)年7月9日号に掲載された「雅子さま、救う『女性宮家』考」という4ページの記事です。

記事のリードには、「皇太子さまの異例発言を受け、盛り上がる皇室典範改正論議。『女性天皇』が認められれば、皇太子妃雅子さまの悩みも軽減される──というわけでもないらしい。愛子さまのプレッシャーを軽くするには『女性宮家』の創設が先だとする研究者もいる」とあるのですが、その研究者こそ、所教授なのでした。

所先生はこうコメントしています。「雅子さまや愛子さまの身になって考えれば、いま、いきなり女性天皇にいってしまうのは重圧が大きすぎると思われます。天皇になると、男性でも過酷な重労働を一生続けなければなりません。まずは女性皇族が結婚しても皇族の身分でいられる制度を整えるべきだと思います」

雑誌記事が出てから約半年後の12月に設置されたのが、「安定的で望ましい皇位継承」のための方策を追求する皇室典範有識者会議で、教授は翌年6月8日の会議に招かれ、明確に「女性宮家」創設を提言しています。

「皇族の総数が現在かなり極端に少なくなってきております。しかも、今後少子化が進み更に減少するおそれがあります。このような皇族の減少を何とかして食い止めるためには、まず女性皇族が結婚後も宮家を立てられることにより、皇族身分にとどまられることができるようにする必要があります」
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7siryou3.html

教授が当日配布した資料には、「女系継承の容認と女性宮家の創立」と明記され、「現在極端に少ない皇族の総数を増やすためには、女子皇族も結婚により女性宮家を創立できるように改め、その子女も皇族とする必要があろう」などと記されています。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/dai7/7gijisidai.html

所教授の発言は会議の報告書を先取りする内容でした。

報告書には「現行制度では、皇族女子は天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れることとされているが、女子が皇位継承資格を有することとした場合には、婚姻後も、皇位継承資格者として、皇族の身分にとどまり、その配偶者や子孫も皇族となることとする必要がある」(「3、皇族の範囲」)と述べられています。

ただ、報告書には「宮家を立てて」が脱落し、「女性宮家」という表現が消えています。

皇位継承論としての「女性宮家」創設論は所教授が最初に提案し、有識者会議で議論されたけれども、なぜか報告書からは消えたということなのでしょうか?

興味深いことに、所教授は「誰が女性宮家創設を言い出したのか、知らない」といい、ご自身が最初の提唱者であることを認めていません。


▽3 内閣法制局の極秘プロジェクト

じつは所教授以前に、たしかに「女性宮家」の提案者がいるのです。国立国会図書館のデータベースで、「女性宮家」をキーワードに検索すると、さらに遡れるからです。

検索でヒットするのは30数件。古い順に並べると、もっとも古いのが10年前、元毎日新聞記者で、CNN日本語サイト編集長だった森暢平氏が執筆した、(1)「女性天皇容認!内閣法制局が極秘に進める。これが「皇室典範」改正草案──女帝を認め、女性宮家をつくるための検討作業」(「文藝春秋」2002年3月号)でした。

次が2年後、先述した所教授のコメントが載る、(2)「お世継ぎ問題 結婚しても皇籍離脱しない道 雅子さま救う「女性宮家」考(「週刊朝日」2004年7月9日号)、その次が同時期に所教授自身が書いた、(3)「“皇室の危機”打開のために──女性宮家の創立と帝王学──女帝、是か非かを問う前にすべき工夫や方策がある」(「Voice」2004年8月号)と続きます。

所教授の存在感があらためて確認できますが、教授に先駆ける提案者がいたことが分かります。

森氏の記事によれば、内閣法制局皇室典範改正の極秘プロジェクトを進めていたのでした。その基本方針は、(1)女性天皇容認と(2)女性宮家創設容認の「2つの柱」だったのです。

同年4月に33歳をお迎えになる紀宮殿下の結婚問題を背景にして、安倍晋三官房副長官ら官邸筋もからみ、早期改正が視野に入っている、と記事は指摘しています。

それなら、内閣法制局の官僚たちが考える「女性宮家」とは何か、森氏によれば、「女性天皇」と同じなのです。

「女性天皇を認めた場合、一般の女性皇族にも皇位継承権があり、基本的には結婚しても皇室に残ることになる。つまり、必然的に女性宮家が認められる。いわば、女性天皇と女性宮家は表裏の関係で、検討案の『2つの柱』は、突き詰めると1つと見なせる」

女性天皇・女系継承容認と一体のかたちで、「女性宮家」創設論が生まれていることが分かります。

この問題に詳しい産経新聞の阿比留瑠偉記者によれば、平成8年に宮内庁内で皇位継承制度にかかわる基礎資料の作成が始まったことが、同紙が入手した極秘文書によって分かるといいます。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2560514/

翌9年4月から12年3月まで、内閣官房が加わった非公式の「特別研究会」が2期に分かれて設置され、第1期メンバーには、工藤敦夫元内閣法制局長官、古川貞二郎内閣官房副長官(当時)、大森政輔内閣法制局長官(同)らのほか、元宮内庁幹部らが名を連ねています。

第2期研究会には、やはりのちに有識者会議の委員(副座長)となり、いま「女性宮家」検討担当内閣官房参与を務める園部逸夫元最高裁判事が加わりました。

研究会は12年3月にいったん閉じますが、宮内庁内では資料の作成、整理が続けられました。

森氏の記事はちょうどこの段階で書かれています。


▽4 本質論が欠けたまま誘導される

阿比留記者によると、その後、15年5月から16年6月にかけて、内閣官房と内閣法制局宮内庁による皇位継承制度の改正に向けた共同検討が実施されました。そして皇室典範有識者会議が16年12月に発足しますが、会議の最終報告書では「女性宮家」の表現は消えました。

ともあれ、現在の「女性宮家」創設論が女性天皇・女系継承容認と同一の議論だとするならば、さまざまな謎は解けます。森氏が書いているように、女性皇族にも皇位継承権があることになり、当然、宮家を立てなければなりません。

しかし、だとすれば、そのように説明されてこそ、国民的な議論は可能です。前侍従長のように、当事者であるはずの宮内庁関係者が「皇位継承問題とは別の次元の問題」などと強調することなどあるべきではありません。

「別の次元」と先手を打って、女性天皇・女系容認反対論を封じ込める一方で、過去の歴史にない制度改革を粛々と進めるのは、まるで愚民政策といわねばなりません。

先日、東京新聞特報部の取材を受け、3つのことを指摘しました。

(1)いまの「女性宮家」創設論議は提案者が見えない。提案者はその中味、目的をきちんと説明すべきだ。

(2)提案者の1人らしい前侍従長は「皇室のご活動」を確保するために皇室にとどまる必要性を説明しているが、理由にならない。旧皇族がオリンピック委員会の活動を行い、伊勢神宮の斎主を務めているケースもあるからだ。

(3)前侍従長の発想はヨーロッパ的、近代的な「行動する」皇室論であり、天皇・皇族のお務めは何か、という本質論が欠けている。であればなおのこと、提案者はきちんと提案理由を説明すべきだ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2012030302000039.html

天皇が「象徴」という単なる国家機関だとするならば、男だろうが、女だろうがかまわない。「世襲」とはただ血がつながっていればいいというのなら、男系でも女系でもかまわない、という結論になるでしょう。

天皇とは何か、という本質的な論議が欠けたまま、けっして表に顔を出さない官僚たちに、私たちは誘導されているかのようです。天皇の地位は国家のもっとも基本的な問題であるにもかかわらず、です。

以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5513492/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)

 

天皇陛下をご多忙にしているのは誰か──「文藝春秋」昨年4月号掲載拙文の転載 その2

2012/03/04 18:17

 

1から続く

 


▽6 入江侍従長の暴言「くだらない」

祭祀簡略化の張本人は入江相政侍従長でした。理由は昭和天皇のご健康問題でもご高齢でもありません。

43年に侍従次長となり、翌年には侍従長代行、侍従長と駆け上がった入江氏は、43年には毎月1日の旬祭の親拝を年2回に削減し、45年には新嘗祭の「簡 素化」(入江日記)に取りかかりました。入江日記によると、同年の新嘗祭は夕の儀のみが親祭で、暁の儀は掌典長が祭典を行ったようです。

入江日記には、45年5月に香淳皇后から旬祭の親拝削減について抗議を受けた入江が猛反撃し、ねじ伏せたことが誇らしげにつづられています。陛下のご意向 を大切にするどころか、「くだらない」との暴言さえ記されていますが、親拝削減の理由が「ご高齢」にあるとの記述は見当たりません。

当時、入江が盛んに気にしていたのは昭和天皇の「お口のお癖」で、新嘗祭「簡素化」のきっかけのように説明されています。しかし「お癖」が始まったのは香 淳皇后の抗議の直後からで、陛下の「お癖」を入江が老化現象と理解したとしても、43年の旬祭の親拝削減の原因とはなり得ません。逆に入江の工作が「お 癖」の原因とも疑われます。

46年11月23日の入江日記には、次のように書かれています。

「……今年から新嘗はさわりだけに願ったので、出勤も遅くてよく、5時半に迎えの車が来るはずのところ、運動のために歩いて出勤、いい気持ちである。相撲 を十両から打ち出しまで見る。こんなことも珍しい。6時過ぎにまた入浴。今日は都合3回の入浴。7時に吹上発御、吹上への還御は8時10分。お帰りのお車 のなかで『これなら何ともないから、急にも行くまいが、暁もやってもいい』との仰せ。ご満足でよかった。みんなといっしょに酒肴。帰宅したのはかれこれ2 時」

伝統無視の簡略化に、昭和天皇が「ご満足」だったとは信じられません。「暁をやってもいい」とのご発言は逆にご不満の表明でしょう。争わずに受け入れるの が古来、天皇の帝王学ですが、皇室の伝統より相撲観戦を優先するような、俗物侍従長の身勝手きわまる簡略化に、陛下は最大限抵抗されていたのでしょう。

それどころか、際限ない祭祀簡略化に対し、祭祀王を自覚する昭和天皇は「退位」を口にされました。入江日記にはこう記録されています。「11月3日の明治 節祭を御代拝に、そして献穀は参集殿で、ということを申し上げたら、そんなことをすると結局、退位につながる、と仰せになるから……」(48年10月30 日)

この年の入江日記からは、昭和天皇が幾度となく退位、譲位について表明されたことが読み取れます。祭祀こそ天皇第一のお務めであるという大原則に立てば、入江侍従長らが工作する無原則の祭祀簡略化がどれほど受け入れがたいことだったでしょうか。


▽7 昭和50年8月15日の長官室会議

風岡次長は3年前の平成20年2月、「昭和の時代にも、次第にお年を召されつつあった昭和天皇のご負担軽減という観点から、累次、所要の調整が行われた経緯があります」と、あたかも当時の「調整」が昭和天皇のご高齢が理由で行われたかのように説明しています。

しかし、「簡素化」が始まった昭和43年といえば陛下はまだ60代です。46年秋にはヨーロッパを、50年秋にはアメリカを、香淳皇后とともに訪問されています。半月もの長旅に耐えられるのは「高齢」ではありません。

祭祀破壊の原因が「高齢」ではないのなら、真因は何でしょうか。当時を知る宮内庁OBは憲法政教分離問題だと説明します。

「戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになった。新しい職員は『国家公務員』 という発想が先に立ち、皇室の伝統に対する理解は乏しかった。新興宗教と見まごうほどに厳格な政教分離の考え方が宮内庁中にはびこり、なぜ祭祀に関わらな ければならないのか、などと、側近の侍従職までが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めた」

膨大な日記に宮中祭祀の神聖さを何ら記録しなかった「俗物」侍従長が執念を燃やした祭祀の形骸化は、富田朝彦・内閣調査室長が49年秋に宮内庁次長とな り、長官に就任するころ、舞台を「オモテ」に移し、激化します。日経新聞がスクープした富田メモで知られる富田長官は、無神論者を自認していたと同時の関 係者が証言しています。

大きなうねりのようなものが宮内庁を含む行政全体を襲い、そしていよいよ、戦後30年の昭和50年8月15日、宮内庁長官室の会議で、祭祀の改変が決められました。

入江のこの日の日記には「長官室の会議。神宮御代拝は掌典、毎朝御代拝は侍従、ただし庭上よりモーニングで」とあり、昭和天皇最後の側近といわれる卜部亮 吾侍従の翌日の日記には「伊勢(神宮)は掌典の御代拝、畝傍(神武山陵)は侍従、問題の毎朝御代拝はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由。 小祭の御代拝は掌典次長を設けてこれに、など」と記されています。

卜部が記録しているように、最大の変更は毎朝御代拝だったようです。

天皇に代わって側近の侍従に拝礼させる毎朝御代拝を、側近たちは、宮中三殿の前庭のなるべく遠い位置からモーニングを着て拝礼する形式に変えました。侍従 は国家公務員だから、祭祀という宗教に関与すべきではない、というのが理由で、拝礼場所と服装の変更は神道色を薄めるための配慮とされます。「従前の例に 準じて」とする昭和22年の依命通牒は反故にされました。

行政は宗教行為にいっさい関与すべきでないというのなら、公営斎場や墓地、公的追悼行事も許されません。布教を想定していない宮中祭祀が国民の信教の自由を侵すはずもなく、政教分離は理由になりません。

このほか、御代拝に関する重大な変更がなされました。天皇の御代拝は公務員である侍従から内廷職員、つまり天皇の私的使用人という立場にある新設の掌典次 長に代わり、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝は廃止されました。皇后陛下、両殿下は御代拝の機会さえ奪われたのです。近年、雅子妃殿下が平成十五年以降、 「祭祀にいっさいご出席ではない」と批判されるのは、この一方的なご代拝制度廃止に原因があります。

奇しくも昭和天皇が歌会始で「世の平らぎをいのる朝々」と詠まれたその年、天皇の祭祀は側近たちによって改変されたのでした。

拙著にくわしく書きましたが、天皇の祭祀は国と民をひとつにまとめる機能を持っていると考えられます。多様なる国民を多様なるままに統合する多神教的、多宗教的文明の核心です。一神教世界で生まれた政教分離原則で規制するところに無理があります。

昭和天皇は61年の新嘗祭まで親祭を貫かれましたが、悪しき先例は平成のいま踏襲されています。祭祀王たる天皇の本質を見誤り、いわば誤った憲法解釈・運 用に忠誠を誓っているのです。「つねに国民の幸せを祈るというお気持ちをかたちにしたものとして祭祀がある」と語るほど、祭祀への理解が浅からぬ前侍従長 でさえ、天皇の祭祀は私的行為であるという占領前期の憲法解釈から抜け出せずにいるようです。


▽8 勇気ある掌典補の問題提起

昭和40年代に始まる祭祀の改変の実態は、いまでこそ側近たちの日記によって知ることができますが、当時は関係者以外、ほとんどうかがい知ることができま せんでした。驚きの事実が明るみに出たのは、昭和57年暮れに現職の掌典補である永田忠興氏が、勇気をもって学会発表したことがきっかけで、翌年の年明け 早々、「週刊文春」がこれを大きく報道すると、大騒動に発展しました。

同誌の記事が指摘した祭祀の「変更」は、先述した、(1)旬祭御代拝、毎朝御代拝の変更、(2)伊勢神宮での皇太子御代拝の変更、(3)皇族の御代拝の変更など、6点に及びました。

この報道に対して祭祀重視派の対応は慎重でした。官僚たちの判断と陛下のご判断との関係が微妙であること、内廷のことは天皇の聖域であって、陛下のご心中を拝察すればただちに公開討論するのははばかれる、という冷静な判断があったからです。

しかしその姿勢がほどなくして一変します。憂慮する照会者に対して、宮内官僚たちが紋切り型の対応に終始し、「祭祀は天皇の私事」とする占領時代前期の古 臭い憲法解釈を繰り返していたからです。破られてはならない原則が踏みにじられている現実を知って、尊皇派は危機意識を強め、「もはや遠慮は許されない」 と及び腰の姿勢を転換させ、一気に痛烈な批判行動へと向かったのでした。

とくに、事態を重視した神社本庁は、澁川健一事務局長名による抗議の質問書を提出し、いま宮内庁当局者が「祭事は陛下の私事以外には扱えない」と語っているのは見解が変わったのか、と詰め寄りました。

紆余曲折の末、宮内庁は東園基文掌典長名による「公式見解」を発表し、祭祀はすべて「陛下の私事」とする一般に流布する解釈ではなくて、「ことによっては 国事、ことによっては公事」とする神社人の主張を明確に認めました。けれども祭祀の改変はさらに進んだことが「入江日記」に記録されています。

それから30余年、平成の祭祀簡略化が進行しています。宮内庁の見解はふたたび変わったのでしょうか。それとも東園回答書が方便に過ぎなかったのでしょうか。他方、平成の尊皇家たちから、抗議の声はほとんど聞こえてきません。

それかあらぬか、天皇の権威は失墜するばかりです。羽毛田長官は、皇族の意見も聴かないままに女帝容認の皇室典範改正を急ぎ、民主党政権に秋波を送りました。鳩山内閣は中国の習近平副主席のゴリ押し天皇会見を強行し、菅内閣は歌会始の日に内閣を改造しました。

保守派も革新派も憲法論議といえば、「9条」ばかりで、第1条を考えていません。その結果、天皇はさしずめ名目上の単なる「象徴」に成り下がっています。

渡邉前侍従長は前掲「諸君!」インタビューの最後に、憲法論に言及し、「今上陛下はご即位のはじめから現憲法下の象徴天皇であられた」と述べています。

象徴天皇制について、陛下は会見などでしばしば触れられていますが、前侍従長とはニュアンスが異なるのではないでしょうか。ごく簡単にいえば、前侍従長は あくまで現行憲法を気転とする象徴天皇制ですが、陛下は歴史的な背景を十分に踏まえた上での議論だと思います。歴代天皇が祭祀の力で国と民をまとめ上げて きた長い歴史があるからこそ、象徴たる地位がある、というお考えでしょう。

渡邉前侍従長によれば、たび重なる祭祀簡略化の進言に、陛下は「『自分はまだできるから』とおっしゃって昭和天皇に倣うことをお許しになりませんでした」 (前掲渡邉著書)。昭和の簡略化を間近でつぶさにご覧になり、いま祭祀王としてのお務めを十分に自覚される陛下なら当然です。

昨年(22年)暮れの誕生日会見で、陛下は「今のところこれ以上大きな負担軽減をするつもりはありません」と述べられました。頼みとする尊皇家たちが沈黙 するなか、陛下はたった一人で国と民のために祈られている。その文明的価値を国民が1人でも2人でも多くなることを、心から願わずにはいられません。
(筆者注。引用文は適宜編集しています)

 


以上、斎藤吉久の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンから。

http://melma.com/backnumber_170937_5507607/

カテゴリ: 世界から  > 世界の話題    フォルダ: 指定なし

コメント(0)